<夢と原始脳とうつつ、内面と世界とひかりについての、つぶやき>
最近、夢をよく見る。
定期的に夢のヴァイオリズムがやってくる。
それが夢の記憶だと気づくのは、目覚めた直後だからだ。
だが日常の起きている時に、脈略なく、突然、何かのシーンを想起されることがある。
それが夢の記憶なのか、それとも何かの体験だったか、それともディジャブなのか、区別がつかない。
それがいつか見た夢なのか、何かの記憶なのか、判断がつかないのだ。
判断がつかないで方向感覚を失った状態って、なんとも居心地が悪い。
すごく気持ち悪い。
困ったことに、そのようなことが、割とよく起こる。
まあ、それを楽しんではいるけど、、、、
私の内面にはとても未熟な部分がある。
それは「知性」「感性」に関わることより「原始脳」にあるものだ。
あえて言えば、セクシャリティー的や生命本能的なものだ。
演奏行為は第一チャクラに依拠している。
それを見るのは恐ろしいことだね。
倫理、道徳というものを、多分私は越えられない。
超えられないとか言いながら、ちょっと企んでいる。w w w
世界中の人々はもうウンザリしている。
2500年以上続いてきた、負の歴史。
帝国主義と覇権闘争の歴史、血生臭い戦争の歴史に、心底ウンザリしている。
そして、ようやく、その偽りのシステム、強欲と陰謀のシステムが見透かされ始めている。
(見える人には見えると言い換えるかな)
現在の国際情勢は、新しい多極的な調和のシステムに移行する実験場になっている。
今までのシステムが不可逆的に崩壊し始めている。
覇権主義者たちはパニックし、自暴自棄的な無謀な策略を弄している。
それらは自滅的だ。
自滅的だが一般人を巻き添いにしている。
時代の寵児たちは冷静で粛々としてはいるが、嬉々としているようにも見える。
時代は彼らに味方していることを、彼らも受け止めているのだろう。
その流れは止まることはない。
かたやどんどんと追い詰められている負の時代のプレーヤーたちは滑稽だが、悲劇的でもある。
彼らは被害者たちから報復されるのだろうか?
どれだけの犠牲を払えば、時代を越えられるというのか?
私たちには疑念がある。
人類の歴史は、暴力的な征服欲の歴史だ。
2500年も続いた負の歴史を、果たしてそう簡単に超えられるものなのか?
「歴史は繰り返す」そうしたり顔で語るものは多い。
とても悲観的な見方だ。
ミアシャイマーのネオ・リアリズム論、パワーバランス論は、有効なのかもしれないとも思う。
普通の一般の人々が望むのは、ささやかな幸せだ。
戦争などに脅かされない、植民主義に搾取されない、平和な国。
安定した過不足のない生活。
子供たちと、楽しい明るい家庭。
非合理的でも、繋がりを大切にする経済システム。
隣人、隣国と楽しくコミュニケーションする関係。
十分可能だよね。
さて、国際情勢の流れが安定的になると、私たちの心も安定的になってくる。
しかし世界に起きている不正と犠牲者の存在を知ることは、私たちの内面を蝕む。
それは仕方がないことだ。
「世界全体が幸福にならない限り、自分も幸福になれない」そう言ったのは宮沢賢治だけど、逆もまた然り。
自分自身の幸福を見つけることは、世界を幸福にすることでもあるね。
高知のイベントで、私は「ひかり」について語った。
どんな人にも「ひかり」はある。
それぞれの「ひかり」だ。
そのひかりに向かっていけばいい。
でも多くの人は自身の「ひかり」に気づかない。
「ひかり」は微かなものだから、なかなか見つけにくいとは思う。
また、気づいても、それを体現する方法を知らない。
それでも自身の「ひかり」に気づいたものは幸せだ。
ひかりに向かうことは、それこそ冒険の旅になる。
Bon voyage
良い旅を、本当に心から祈ってるよ。
最近、自分は図に乗っていると思う。
なんか、いろいろな謎解きが、おおよそ分かったつもりになっている。
観念的なこと、スピリチャルなこと、心理的なこと、社会心理的なこと、そして国際情勢、そしてアートなこと、、、
おいおい、図に乗るなよ。
慢心すると、こけるぞ、、、、
そう自戒するのだけど、人間って痛い目見ないと気づかないのかも、、、
こけた時が見ものだね。
ある友人に「この歳になったら、これからは行だよ」と言われた。
「修行?」
「いや、修をとって、行だけ」
すごく納得した感じがした。
ただ、そこにいるだけ。
逃げない、たち去らない。
ただただ、そこに居て、生きていくこと、、、
ウォンウィンツァン
2024/02/08