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<音楽家の父と息子>

昨夜は、息子のサロンコンサートがあり、聴きに行った。
本当は、あまり行きたいとは思っていなかった。
父親の出る幕ではないし、息子は息子で勝手にやってほしいと思っている。
それに、行けば「親」という立場を取らざるを得ぬ場面も出てきて、そのような不本意な事態は、出来れば避けたい。

が、息子は、わたしと違って情が深い。
家族たちに聴いて欲しいと思うんだな〜
私が40歳でコンサート活動を始めた時、家族の応援が必須だと思っていた。
家族の理解と応援がなければ、自分はやっていけないと思っていた。
しかし、私が28歳の時は、家族なんかどうでも良かった。
むしろ家族から離れたいと思っていた。
しかし、時代は変わったのだ、、、
そんなわけで、息子の要望に答えて、彼らの音楽を楽しみに行った。

私は息子を一人の音楽家としてみている。
息子も私を親としてより音楽家としてみている。
その関係は、ある意味、たいへん熾烈だ。
しかし、とかく世間は私達の関係を「同じ音楽家の親子の絆」というくくりで見たがるようだ。
音楽という場では、そんな甘くはない。

親子の、とりわけ「父親と息子」の関係は、時代を超えて永遠のテーマなのだろう。
が、しかしそれは、それぞれの親子のパーソナリティーや個性、個別性や時代背景や環境に大きく依拠し、ステレオタイプ的な解釈で、一括りにすることは出来ない。
勝手な、解ったような愛情論を押し付けられると、私はムカツクよ!

息子の演奏を聴くと、自分があの年齢の時、あんなに演奏が出来ただろうか、と思う。
私が苦労してようやく手に入れたようなものを、彼はあの年齢で自分のものにしている。
それは、門前の小僧とでも言うものなのかもしれないが、やはり才能だろう。

彼は実にラッキーなコースを歩んでいる、と私たちは思う。
そのラッキーを最大限に活用して、どんどん先に行ってほしい、と願う。
だが一方、果たしてそれでいいのだろうか、それで大丈夫なのだろうかと、老婆心が起きる。
近道をしたのでは得られないものもある。

でも、それはそれなんじゃないだろうか。
彼がラッキーだと思うのは、私達の勝手な言い分だ。
本人にとってはイバラの道かもしれないのだ。
それぞれ学ぶものも、タイミングも違うのだから、今やれることをやるしかない。
学ぶべき時が来たら、つまり、直面せねばならない時が来たら、向き合えばいい。
それだけなのではないだろうか。
私たち親や、年配者がどうこう言う話しではない。
結局は本人の意志だから、やりたいようにやればいい。
それぞれの運命を生きれば良いということだよ。
どのみちシンドくないわけがないのだし、、、

人は皆それぞれ、その人にしか歩めない道のり、その人にしか辿れないプロセスがある。
私と息子とでは、まったく違う道のりなのだ。
それぞれがそれぞれの運命を生きるしか無いのだと思う。

音楽家が活動を続けてるためには、応援してくれる人たちが必要だ。
それは、音楽家が自分の音楽に本気で向き合っている姿を見せることによって、人は動き、応援もしてくれる。
それが音楽家とオーディエンスの絆だ。
が、しかし、音楽に向きあう向き合い方は、畢竟自分にしかわからない、誰にもわからない、時に自分にすらわからない、孤独な道のりなんだということ、、、
誰にも甘えられない、甘える訳にはいかないということだよ。
迷いがあろうが、打ちのめされることがあろうが、解らなくなろうが、沢山弁解しようが、ああしよう、こうしようも、もうどうでもいい。
ただただ、ひたすらやり続けるしかないだよな〜

と、ここまで書いて、少し何かを手放せたような気になっている、親である。

ウォンウィンツァン
2012/04/15
by wtwong | 2012-04-15 12:56 | essay