なぜ人は「死」について考えるのだろう

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 「メメント・モリ」という言葉がある。直訳するなら「死を思え」となるのだそうだが、その解釈は一律ではない。「どうせ死ぬんだから現世を楽しめ」と刹那的な解釈もあれば、あるいは「現世での楽しみ・お金・成功が空虚でむなしいものである」という宗教的な解釈もある。何れにせよ、死というものが巧妙に隠蔽されている現代において、死の不条理を思い返すのは、健全な精神を取り戻すことでもある。死が隠蔽された社会では容易に戦争に突入する危険すらある。

 セラピスト、著述家、そして私の師匠である吉福伸逸氏の記述やワークショップにも死を題材にしたものが多かった。たとえば数日後に死ぬとしたら今なにをするのか、とか、やり残した仕事や想いををリストアップしたり、そして臨終のシーンを想起するようなワークを実際にやってみる。あるいはチベットの「死者の書」(バルドトドル)をベースにしたイメージ瞑想などもやった。核家族化した現在、若い人たちが祖父母などの死を見とる経験が少なくなってしまった今、そのようなワークは意味を持ってくる。

 では、なぜそれほどまでに「死」というものを考えるのだろう?たとえ「ピンピンコロリ」を望んでも、実際にどのような死に方になるのか、誰にもわからない。どのように死を迎えるか不確定なのだ。癌になって徐々に死に向かうのか、突然事故や心臓発作で死ぬのかもしれない。予想できない死なら、今からジタバタしてもしょうが無いではないか。どんな死に方だろうと良いではないか。死に方に優劣はないのだから、、、。しかし、それでも私たちは出来ることなら「良い死に方」を選びたいのだ。

 自分が癌などで死ぬことが分かった時に必ずやってくるのが「後悔」だそうだ。やり残したこと、やりたかったこと、あの人に謝らなかったこと、もっと愛する人を大事にしておけばよかった、などなど、、、あの吉福さんも死に瀕して「やれなかったことが一杯あるんだよ」と仰られたときはちょっと驚いた。吉福さんほどの人でも、、、、でもすぐその後「でも、しょうが無いけどね、、、」と。わたし達がどんなに死というものを想定して、やり残したことがないように、悔いがないように努力しても、必ず後悔は残ると思う。そして最後は受容するのだ。そう、どのみち後悔は残るだろう。せいぜいなるべく後悔が残らないよう、未完の仕事を少しでも減らしておくことしか出来ないだろう。

 人は自分が死んだ後に、何かを残したいという思いは、いったいなんだろうか?音楽というものは、絵画や文章と違って、形になって残すことが出来ない。音は発せられたその瞬間に消えてくことが運命づけられている。演奏したその瞬間の光は、必ず消えていく。私はそのことに耐えられない。じつは私はコンサートの度に必ず録音している。録音技術というものがエジソンによって開発され、音楽文化のあり方が時代とともに大きく変わった。今は高性能のデジタル技術によって演奏を蘇らせることが可能になった。私はコンサートの度に毎回録音し続けているのだ。一期一会の演奏を刻印したい。録音はその時々の演奏を客観的に判断するために始めたことだが、なによりも「光を消したくない」つまり死にたくないという強い渇望がそうさせているのだとしか思えない。何かを残すということは、認めたくない死(滅)を代償させているのかもしれない。

 死を宣告された時、うろたえたり、慌てふためいたり、嘆いたりしたくない、と思う。はっきりした死生観を持って、第三者に翻弄されることなく、死に方を選びたいと思う。母親や妹の死に方、あるいは知人の死を見て、そう思う。この社会や病院は、時には家族の考え方などで、自分の死にたいようには死なしてくれない。死に瀕して取り乱したら家族や周りの人間に大きな迷惑をかけるだろう。死ぬ間際にジタバタすれば家族は大変な思いをする。家族のためにも自分のためにもしっかりとした死生観を持ち、どのように死にたいかしっかりしたヴィジョンを持ちたいものだ。

 その意味で吉福さんの死に方はすばらしいと思う。死を受け入れ、西洋医療を拒否し、病院ではなく自宅で家族に見守られて亡くなられた。「、、、もう十分生きたと思うんだ、、、別れは寂しいけどね、、、」私は頷くしか無かった。彼は家族や知人たちをしっかり別れを交わし、旅立っていった。わたし達家族も彼としっかり別れを交わした。母や妹とは出来なかった別れを交わすことが出来たのだ。本人や家族が死を認めていないと、きちんと別れを言う機会を失ってしまうのだ。

 昔の人にとって死は恐怖だったことだろう。死ぬ時、激しい痛みや苦しみを伴ったことだろう。30年以上前にすい臓がんで亡くなった母の死に方は壮絶という以外に無かった。しかし2007年に同じすい臓がんで無くなった妹は、それほど苦しむことはなかった。あるキリスト教系の病院のホスピスで妹は静かに息を引き取った。入院する時、医者が私に言ったものだ「痛みや苦しみはわたし達が完全にコントロール出来ます。」母親の時と比べると、なんと妹の時は穏やかだったことか。現代医療のペインコントロール(緩和ケアー)の最先端では「死」という意味を塗り替えつつあるように思う。痛みや苦しみを伴わない死!

 スイスでは尊厳死を受け入れている。以前youtubeでみたのだが、ある初老の女性が、看護婦から渡された致死量の薬を飲んで、その看護婦と盛んに会話を続けながら、そのうち意識を失って死んでいった。痛みも苦しみも悲しみもない死。私はその映像を見てどうしょうもない嫌悪感に襲われた。彼女が死を選択した理由の一切を私は知らない。その上で見た映像からは「死」というものがあまりにも軽々しく見えたし、彼女が死を直視しているようには見えなかった。

 キリスト教的な死生観では自死は許されざる神への冒涜だ。しかし自ら死ぬことが悪であるというのは観念にすぎない。本質的に死ぬことに善悪など誰にも言えない事だと思う。例えば溺れている人を見て、自分では助けられないと思っていても自ら海に飛び込む人がいる。愛する人が銃で打たれる前に立ちはだかる人もいる。自ら死を選んでいるのだ。誰が彼らを非難できるだろうか。第二次大戦のことを思い出してみればいい。人間というものは、例えば「お国のため」と言う理由で、自ら死を選ぶことすらする存在だ。

 ジャイナ教徒は現世の仕事をやり終えた後、自分の死期を想定し、断食して死ぬのだという。それは自殺ではなく自死なのだ。あるいはインドではバラナシの川沿いなどでサドゥー(無名の放浪の僧侶)が瞑想し、死の印をむすんだまま亡くなっていることもよくあるという。皆に尊敬されて、崇められ、寄付のお金によって葬られる。ある僧侶が、死に方の美学なのだと言う。「死の美学!」皮肉屋の私は「自己満足じゃないの」って思ったりする。そう、どのような死に様を他人に見せるかは、自分を納得させるためなのかもしれない。

 自殺を選ぶ人の奥底には深い絶望が横たわっている。この苦しみが続くことは、あまりにも耐え難いことなのだ。私は自殺を肯定しているのではない。否定出来ないと言っているのだ。彼らの絶望により添えない者に、彼らの選択をあざけることは不遜以外にない。では、それでも尚も人は生きることを選択するのはなぜなのだろう。いかなる理由も根拠も与えられずに人は生きるに耐えうるのだろうか。生きることは、あらゆる支えもなく、保障もなく、常に矛盾と宙吊りのただなかに居続けるということだ。いつ溺れるともしれない大海のただなかを、目標も見えずに泳ぎ続けることに似ている。そう、それは冒険なのだ。そこでは「泳ぎ続ける」という決意だけしか生きる理由はない。そして最後は「Life is Beautiful!」と呟くのがいい。

 「Life is Beautiful!」と呟けるようになるにはどうしたら良いだろう。痛みや苦しみなど身体的な問題は、昨今の西洋医療でかなり軽減できるようだ。しかし「心の問題」は医療ではクリアーできない。死に瀕して死に切れないでいる人の多くは「心の問題」のために生き切れてないように見える。やり残した仕事があるなしではなく、自分の心の問題を完結させていない人が、かえって生きることに執着することが多い。死に対して過剰に恐れを抱くのもそこに要因がある。「心の問題」に直面したくないということと「死」に直面したくないというのは同じ事だ。しかし「死」は必ずやってくる。「死」に直面した時、かならず「心の問題」にも直面することになる。死に瀕する時、あらゆる心の問題も浮上してくるのだ。しかしその時はその問題に取り組む充分な時間は残されていない。

 吉福さんは「出会っていないと、別れられない」と常々言ってきた。つまり「生」に出会っていないと「生」と別れられないのだ。充分に「生」を知り、「生」を生きてこないと、かえって生きることに執着してしまうということだ。「死」に向きあうこと、つまり「生」と別れるために「いかに生に出会うか」を問うことだと吉福氏は伝えている。では「生に出会う」にはどうしたら良いだろう。その答えは「自らを生きる」ことでしか得られない。答えは「自らの内側を旅すること」でしか見えてこない。

 何れにせよ人は生きている限り、苦しみや悲しみから開放されることはない。吉福氏は「死は最後の癒しなんだよ」と言っていた。そうだと思う。生きることは本当に苦しい。悲しみもたくさんある。最後の癒しに向かって、私たちは「すこしずつ死んでいくこと」、つまりは「少しずつ癒し、開放していくこと」が生きることなのかもしれない。

 しかし同時に私たちは人生を喜びと美しさと愛で溢れさすことも出来る。わたし達の生きる世界は、なんと美しさに溢れているんだろう。なんと愛するもので溢れているだろう。なんと喜びに溢れているだろう。私達はそれを感じ、受け取る能力を宇宙から与えられた。なんというプレゼントだろう。

 「生きる」こととは「感じる」ことなのではないだろうか。悲しみや喜びや美しさや醜さも、閉ざされた感受性を開き切ることが、生き切るということのように私には思える。「生」に直面し「生」を生き切ること。その時その時、「今を十全に生きること」、そのように生きている時、死がやってきてもそれを受け止め、受容し、愛する者たちと別れを交わし、あたらしい世界に旅立つことに潔くなれそうな気がするのだが、、、、

 そう、勿論、その時にならないと私自身がどう振る舞うか、わからないのだ。その時になってみないと、全てはわからない。ここまで色々書いてきて、自分が死に直面した時、どのようになるのか、どのような情動が沸き起こってくるのか、全く予想がつかない。なんとワクワクすることだろう!!

ウォン・ウィンツァン
2013/05/23
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by wtwong | 2013-05-23 06:40 | essay