人気ブログランキング | 話題のタグを見る

永遠の「行」に向かって   Mieko Wong

美枝子さんの文章ですが、ブログを持っていないので、私のブログにアップします。読んであげて下さい。ウォン

永遠の「行」に向かって    Mieko Wong_f0236202_23511162.jpg

みなさま ありがとう ピンクよ、よの中を 明るくね
2013.12.7.に旅立たれた私達の敬愛する広島のK.T子先生(愛称ベテイさん)がピンクのペンで書き遺された言葉です。
・・・心からの哀悼を込めて・・・


みなさま、2014年いかがお迎えですか。
昨年中もたくさんお世話様になり、ありがとうございました。
昨年11月2日に実父が96歳にて旅立ち、
お年賀ご挨拶を遠慮させて頂いておりました。
とりわけ昨年は私と縁の深かった多くの方々の旅立ちを見送る年でした。
その方々との出会いとご縁に心より感謝し、新しい年2014年に新たな決意を込め、長い文面で恐縮ですが、年頭のご挨拶にしたいと思います。

多くの方に多大な影響を与えたハワイ在住のセラピスト、 著述家の吉福伸逸氏が旅立たれのは昨年4月30日でした。
4月9日、私達家族にとって大切な恩人である吉福氏の突然の余命宣告を聞き、家族3人が同時即決で「会いたい!ハワイへ行こう!」と4月14~19日までの1週間ハワイのご自宅を訪ねました。一緒に過ごさせて頂いたその時間は最も「悲しくも幸せな」濃密な時間となりました。吉福氏に出会えた事で、どれだけ私の人間観、人生感が深く豊かなものになったか知れません。 旅立たれる方に直接感謝の気持ちとお別れを魂から伝えられ、受け取って下さった実感を持てた初めての体験でした。 帰国便に乗り込む空港でダイアモンドヘッド から ワイキキ全体に大きな虹のアーチが架かり、奇しくも私の誕生日と重なり大いなる祝福を実感し感動でした。大事な時期にもかかわらず受け入れて下さった吉福さん、奥様、2人の息子さん、そしてその素晴らしい時間をご一緒に共有させていただいたみなさまに心から深い感謝申し上げます。※参照:http://wtwong.exblog.jp/19625301/   http://wtwong.exblog.jp/19527366/

は2001年に母に先立たれ、昨年96歳までの12年間を横浜で一人住まいを続けておりました。昨年後半は食事と夜間の世話が必要になっておりましたが、これまで感心するほど孤独を好み自立した人生を送ってきました。
よくウォンが 「お父さんの自立精神はほんと素晴らしい!」 と言ってくれておりました。 勿論、近隣に在住する 弟(長男)家族(夫婦とその娘3人)の存在が大きな支えであり特に可愛い孫娘3人は何よりの生きる喜びでした。又、一時期は両親と同居してくれていたもう一人の弟(次男)夫婦も海外赴任や地方赴任が続く中、貴重な休み期間ほとんどを父と過ごすことをメインに帰省してくれ、私や長男とは10歳ほども離れた次男を父は「末っ子可愛がり」しており嬉しそうに楽しみに待っているのが常でした。私といえば2人の弟家族の存在に甘え、ほとんど盆と正月しか実家に顔を出さず、 よく両親から冗談の本音で 「美枝子は横浜が海外より遠いみだいだぁー(東北訛りで)」と言われていた不詳な娘でした。それでも私達家族の活動に興味を持って喜んでくれていることは伝わっていました。

父が96歳まで一人住まいが続けられたのにはシベリアでの体験がベースにあったと思っています。両親は満州からの引き揚げ者です。
終戦直後、母は父と別れ別れになり当時8ヶ月の赤子(私の姉)を抱えソ連侵攻から逃げる途中、奉天(現:瀋陽)にて娘を亡います(栄養失調)。その後、男装もしながらの過酷な引き揚げ話を母からよく聞きました。 一方、父は厳寒のシベリア抑留3年間、とても筆舌しがたい厳しい体験のようでしたが当時のことをほとんど語らない父で(その上、耳が強度の難聴)近年幾度となく試みようとしたのですが、断片的な話ばかりで本意を聞き出すことは叶いませんでした。父の難聴はシベリア時代に殴られたことが原因だとずいぶん後になって弟経由で知りました。衛生検査技師を職業とし人付き合いが苦手、寡黙で偏屈な性格は戦争体験が大きかったと今は理解できます。晩年の父の「俺は意地で生ぎでるんだぁー。(東北訛りで)」その言葉が強く残っています。

今思うと絶妙なタイミングで自宅介護と看護、入院が進行したように思います。介護が必要になった時期は丁度、長男が定年、次男は海外赴任から帰国、私も時間調整ができる状況の時でした。長男家族が中心となり交代のローテーションを組み「各自が無理なく出来る範囲での介護を」と合意しあえました。特に長男夫婦の頑張りには敬服でした。父が嫌っていた入院生活も最後の2週間だけで「それぞれの家族との別れ」に相応しい「見送りの時間」を作ってくれた「子孝行」の為の入院に思えました。私とウォンは最後の4日間の夜は徹夜で付き添い貴重な体験をしました。丁度、ウォンも「死」「看取り」に特別な興味をもって様々な情報研究・コーマワーク講座・体験を重ねていた時期でもあったので、父との実体験を共有し多くの事を学べたのは大きなギフトでした。

危篤や昏睡と言われる状態でもしっかりコミニュケーションが取れ、私達の言葉かけにはっきりと反応しました。強度の難聴だったのが嘘のようでした。口を動かし何かを話したがったり指で空中に文字を書き何かを伝えようとします。試しにペンを持たせたら必死に書き出し私達を驚かせました。解読不能もたくさんあった中、はっきりと大きく書いた「行」が特に印象に残りました。「逝く」「往く」の意味? それとも「家に行く」? 確かめようと「もういきたいの?」と 曖昧に問うと反応が今ひとつ。 さらに「もう家に帰りたい?」やはり反応は曖昧。意味が通じた時は大きくうなずくのでどうも違うらしい。又手が様々に動き明らかにそこに存在しない誰かを見てるようであり、何か作業をしている様子だったりで、その都度の言葉かけへの反応はとても興味深かいものでした。特に亡くなるその日の夜は「現次元とあの世への次元と同時に存在する中」に父がいることが明確に確認できました。「誰々さんそこに居るの?」と亡くなった近親者や昔の知人の名前を次々に問いかけると、頷いたり首を振ったりでイエス・ノーをはっきり答えました。 「お迎えに来たの?」に首を振り、「じゃ、まだなんだね?」の問いかけにイエス。さらに「そこに仏様はいるの?」にはっきり頷きました。 私はブッダのつもりで聞いたのだけれど・・・父はどう解釈したのでしょう? 確かめることも出来ぬまま、この会話が父との最後になるとはその時は思いませんでした。 酸素マスクを嫌がりすぐ外してしまい「一息一息を全身全霊で」している父の姿はまるで「激しい修行」の最中のように思えました。退室の言葉かけも憚られその日は「又来るね」の帰宅の挨拶もせずに私達は黙って病室を後にしました。 その数時間後に「その時」が来るとは・・・

必ず来る「その時」を粛々と心の準備をし、緊張感をもって過ごしていたつもりの家族全員、呆然としました、、、 最後の最後、息を引き取った時、父の側には家族誰もが居ない時だったのです。
最後のその日に限って、弟達も家族達も誰もが帰宅の挨拶をしないで退室したそうです。皆が「いつ何時」「その時」が来るやも知れず、握手したり声かけしたりでしっかり挨拶して帰宅していたのに・・・
あまりにもあっけなく「その時」が来てしまい、それぞれがぽっかりと取り残された気持ちになりました。が、すぐに「これは父の選択! 最後まで自立精神を貫き、みんなに平等の子孝行」だったと思えました。父は決して熱心な仏教徒ではありませんでしたし精神世界に興味があるようにも思えませんでした。が、死に顔は神々しくまるで「行者」のようでした。(身内のひいき目でしょうが)

父の書いた「」の意味が私の中で符合し始めたのはその時辺りからでした「最後の入院は子孝行だったけれど、父にとっては辛い行だったのでは・・」「一息一息を、全身全霊の激しい修行」「まるで行者のような形相での旅立」「死は終わりではなく新たな修行の始まり」と葬儀で語ったお坊さん。多分、私が解釈したいように解釈してるだけに過ぎないかもしれません。
もし今、父に確認出来たとしてもやはり曖昧な返答で、真意はわからないでしょう。 それは永遠の」なのかもしれません。

たいへん個人的かつ拙い文章を長々書いてしまいました。
私の2014年へ向けての意識として
昨年の知人達や父の死から大事なメッセージを得たからです。

今、この憂慮する状況の日本や世界、
はたして「我々はどこへ向かうのだろう!」
    「私達は何をどうすべきなのだろうか!」
3・11以降、政治・社会の構造仕組みがどんどん明らかになり
    益々希望を見失ってゆく・・・この現実、
    やりきれない思いが空回りするばかりの・・・この現実。
しかし今、私は愛と知恵そして勇気あるたくさんの人々と繋がっていることにも気が付きます。そのみなさまと共に暗沌としたこの現実に光を探求することに意識を向ければ、何をすべきか必然と見えてくる「希望」も感じております。 日々、心身の精進を重ね、直感判断力を養い、
一瞬一瞬を全身全霊で向き合うように生き「行き」たい。
「いいかい、今、今にいてくださいよ・・・」独特なトーンの言い回しで吉福氏の言葉が聞こえてきます。さらに「だからぁー、もうメロドラマはいいんじゃないの・・・」も重なって。(苦笑)

永遠の「行」に向かって、決意を込め、
2014年どうぞよろしくお願いいたします。

            2014.1月吉日 Wong美枝子
by wtwong | 2014-02-18 23:49 | essay