「君の名は」超越体験としての恋愛

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アニメ映画「君の名は」は社会現象と言われるほどのヒットを続けています。その理由に、この映画がまれに見るスピリチュアルな恋愛映画であるからと私は感じています。

恋愛は人類の永遠のエーマです。 人類だけでなく、動物も含め「命」というものが古今東西関わらず、もっとも生命エネルギーが高揚するのは、他ならない異性(パートナー)を求め合う、情熱です。今更言うまでもなく「恋愛」こそが永遠のテーマなのです。改めてそのことに気付かされた映画でした。

 もちろん恋愛ものならなんでもヒットするわけではありません。このアニメ映画のプロットは相当練り込んでいるというか、周到に準備されているな〜と感心せざるを得ません。二人の主人公が出会うどれだけの必然性があり、障害や不可能性を乗り越えて、果たして出会うことが出来るのか。そのストーリを練り上げるために、映画に出現する素材の前提に、アニミズム、歴史性、神話、スピリチャル言説など、さまざまな材料を準備しています。

 この映画のあらゆるシーンは、最後のシーン、すなわち二人の主人公が出会い、恋愛が成就するためにある、と言うことです。世の中の恋愛物語を私はほとんど知りませんが、ロミオとジュリエットなど、悲しいエンディングが多いと思います。恋愛は成就しない悲しい物語なのです。でも新海誠監督は、この映画で恋愛を成就させました。

 社会学者で著名なS.M氏はラジオ番組で「新海誠は観客を馬鹿にしている!」と酷評しています。その骨子は、かつて、あのワグナーが大衆受けすることを前提に作った音楽が、まんまと大衆受けしてしまったことを上げました。つまりワグナーは大衆を馬鹿にしていたのです。それと同じように新海監督は大衆受けするために、不可能性を可能にした、すなわち恋愛を成就させた、つまり新海誠監督は観客を馬鹿にしたのだ、というのがS.M氏の論です。

 私は違う見方をしています。ある番組で新海監督が「私は出会った」とほんの一瞬、吐露しているのを私は聞き逃しませんでした。そう、新海誠にとって恋愛の成就はリアリティーなんですよ。だからこそこの映画にリアリティーを注ぐことが出来たと、私は思っているわけです。観客は馬鹿じゃない。映画にリアリティーがなければ、ここまではヒットしなかったと思います。

 でもS.M氏は言うでしょう。恋愛が成就するわけないじゃないか。恋愛は不可能性だ。それが現実であって、恋愛の成就は幻想にすぎない。それは人間は時間と肉体を持った限られた存在であるという意味では、正しいと思います。しかし人間はそれだけの存在ではありません。

 新海監督がこの映画の中ほどで祖母一葉に語らせる「むすひ」の言説は、新海監督の思想そのものだと感じられるだけの深さがあります。そして恋愛は、人と人との出会いは、ある超越的な次元の中で「ひとつ」になることがある。恋愛の成就という至高体験を、人間は体験することがある。新海誠はその体験があり、そのリアリティーをもってして、この映画に命を吹き込んでいる、と言うのが私の解釈です。

 この映画を作る上で新海誠監督は、映画のラストシーン、恋愛の成就を一番最初に設定し、すべてはそのために周到に用意され、構成されたと私は考えます。アニメ映画「君の名は」は、たとえ表現に過剰性があるにせよ、まれに見る優れて完成度の高い恋愛映画だと、私は感じました。
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by wtwong | 2016-10-23 17:18