「ほっ」と。キャンペーン

吉福伸逸氏のセラピーの本質

f0236202_18531752.jpg

<吉福ワークの激しさ>
 吉福伸逸さんのワークショップは激しいことで有名だった。彼のワークショップでアシスタントをさせてもらった私からみても「激しい」部分はあったと思う。でもワークショップに参加したこともない人が、その雰囲気から「激しい」と批判をする意味とは、だいぶ違うと思う。

<吉福ワークは侵襲的か?>
 吉福ワークを批判する人は、よく「侵襲的」と言う言葉を使う。侵襲的とは、クライアントの意識や無意識に土足で入り込むようなニアンスがある。ワークショップの現場で起きていることを、其の言葉が正しく言い表しているとは私には思えない。でも吉福さんのセラピーはときに其のように思われる可能性もあるものだった。

<吉福さんとの議論、セラピーの現場では、、>
 其のことでは私は吉福さんとぶつかることも多かった。議論というレベルにまでは行かなかったけど、ことある事にクライアント(参加者)のプロセスに、どのように、どこまで介入するかで言い合うことが多かった。なぜ議論にならないかと言えば、ワークショップの最中、プロセスは有機的、流動的、多次元的に起きていて、そんな悠長な時間も余裕もないというところが本当のところだ。プロセスは次々と起きていて、その時その時、瞬時にどう対応するか、それは理屈を超えていて、結局セラピストの直感とセンスにゆだねるしかない。あとで検証できるようなことではなかった。何よりも師匠の吉福さんと弟子の私では、およそ経験値も資質も格段の差があり、議論にならなかった。

<癒やしの力への信頼、セラピストの力量>
 吉福さんがいろいろ言ってきたことを私なりにまとめてみる。「どんな人もトラウマ(精神的外傷)を抱えている。抱えていない人はいない。そして其の外傷を癒す力も人は必ず持っている。自然治癒力と言われるように、無意識下に潜む精神的外傷も自ら癒す力を持っている。しかし、トラウマに直面することの不安、恐怖、さまざまなブロックに覆われ、立ち往生しているのだ。ワークショップで行われることは、其の自然治癒力にスイッチを入れることなのだ。様々なワークやゲームを通して、自ら其のスイッチを入れることなのだ。セラピストは、安全な環境を提供し、そのプロセスを見守るだけでいい。そして適度で適切な介入をどれだけ出来るかはセラピストの力量なのだ」と。

<プロセスへの信頼>
 結局「適度で適切な介入とはどういう事なのか」に尽きるように思える。私には吉福氏が、クライアントがまだ準備ができていないにも関わらず、どんどんと介入しているように見えた。少なくとも彼らの顕在意識は拒否している。しかし吉福氏は言う、「いや、もう準備はできているんだよ。表層では拒否していても、深層では準備ができているんだよ」と。彼にはクライアントのプロセスが見えていた。そして治癒力とそのプロセスに信頼を持っていた。つまり吉福伸逸氏だから出来たセラピーなのだと思う。

<吉福氏だからできるセラピー>
 2010年ごろだろうか、ワークショップのアシスタントをしながら、自分の限界というものを感じていた。吉福メソッドの基本的な考え方は私にフィットした。でも私には吉福さんほどの才能はなかった。彼のようには介入できないのだ。そんな私に吉福氏は「ウォンさんなりのやり方をやったら良いと思うよ」と言うようになっていった。吉福さんのセラピーは吉福さんにしかできないことは本人もよくわかっていた。

<吉福さんとの決別>
 私が私らしいセラピーの方法を見つける。それを吉福さんのワークショップの中で実現することはとても困難なことだった。私は吉福さんのワークショップで他のアシスタントとぶつかることが多くなっていった。彼らにとって吉福メソッドは絶対であり、他の方法を模索しているわたしに批判的になっていくのは当然だっただろう。2010年秋のワークショップを最後に、私は吉福さんと決別することになる。

<本質的な癒やしとは>
 セラピーとはなんだろう?世の中には様々なセラピーメソッドが開発、考案されている。その数は数百に登るという。そしてセラピーの治癒の方法、セラピーの目的、目標とするものも様々にあると思う。吉福さんのセラピーとは、語弊を恐れず言うなら「本質的な癒やし」になる。「本質的な癒やし」とは何か?それは誰もわからない。その本人にしかわからない。本人の魂にしかわからない。
(かれは「本質的な癒やし」という言葉は使わなかった。「本格的な治癒」と言っていた)

<本質に直面すること>
 そして其の「本質的な癒やし」が実現するためには、セラピーの現場では何が起きるのだろう。吉福さんが執拗に繰り返し言うことは「直面する」と言うことだった。自分の本質に直面すること。たましいの本質に直面すること。その時初めて「本質的な癒やしが起きる」と言うのだ。なんと恐ろしいことだろうと思う人は多いだろう。自分の本質に出会うことは、本当に恐ろしいことなのだ。そこが吉福ワークをして「激しい」と言わしめることなのだと思う。

<セラピーの限界、セラピストの限界>
 セラピストに資質がない場合、トラウマがあまりに強いクライアントが直面することで、かえってトラウマを深くしてしまうことは十分有り得る。セラピストはよほど自分の限界を知らねばならないと思う。だから直面すれば全て良しとは私には言い切れない。吉福氏は、実際に直面してみれば、それが恐怖の対象なんかでないことが判ると言う。お化けに見えたものは柳でしかないことを知るだろう、と言う。柳に直面するまでにセラピストが導けるかということでもあると思う。

<社会心理学>
 2010年の秋、セラピーの世界から離脱した私は、社会問題や政治問題に意識を向けるようになっていく。でもセラピーのことを忘れ去ったわけではなかった。この社会というものが、どのような構造になっているのか、社会心理学的な側面からの解読というのがテーマになっていた。

<吉福氏の最後のワークショップ>
 そして2013年秋、突然、吉福氏から電話があり、ワークショップに参加しないかと言ってきた。そして其のワークショップが吉福氏が行った最後のワークショップになった。其のワークショップは、2005年から参加していた吉福ワークで私がたどり着いた最後の癒やしのワークであったと思う。その時の内容をまだ冷静に書くことは出来ないけど、、、私は魂の叫びにたどり着くことが出来た。
「、、、なんで、おれを、みすてたんだ、、、」

<吉福氏との最後の会話>
 次の年、2014年4月、吉福氏が末期がんで、余命1〜3ヶ月と知ると、私達家族はハワイの彼の家に駆けつけた。ベッドに横たわりながら、いろいろと話をすることが出来た。そしてワークショップの話になった。私はワークショップを続けたいと思う気持ちと、2010年以来、吉福ワークに参加していなかったブランクから、続けられる自信はなく、迷っていた。「ウォンさんなら出来ると思うよ。自分のやり方でいいんだよ。ウォンさんももう年だし、あまり時間はないよ」

<本質的なセラピーの向こうにあるもの>
 2014年4月30日、吉福伸逸氏は旅立っていった。あれから二年半の月日がたった今も、私の考え方、感じ方に彼の影響が現在進行形で息づいている。そして解読し続けている。彼のセラピーが臨む向こうに何があるのだろう?もし言葉にしてしまうことが到達点を規定してしまう事になっても、あえて言ってしまおう。
それは「さとりの境地」と言うものかもしれない。

ウォン・ウィンツァン
2016-11-11
[PR]
by wtwong | 2016-11-11 18:54