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作品をどのように展示するのか。
それがどんなに大きなファクターだろうか。
そのことに意識を向け始めたのは、実は最近のことだ。
写真にしろ絵画、造形、インスタレーションなど、どのような空間で、どのような照明をあて、どのようなコンテキスト(文脈)の中で、それらを観るのか、それで作品の評価は決まってしまうと言っても過言ではない。
今まで、そのような付加的な要因は作品の価値に関係ない、作品それ自体に存在感があれば、場所や時間に関係なく人に訴えかけることができる、そう考えてきた。
しかしそれは、人間が表現をどのように享受するのかという、本質的な視点を無視した、実に薄っぺらい芸術精神論に過ぎない。
ある写真家の友人が、自分の作品を真っ暗な空間に展示し、行灯の光だけで見せたい、と話していた。
その作品は、殆どコントラストがない、女性の裸体のなめらかな曲線に浮き上がる精妙な陰影だけが、幻のように浮き上がっている写真なのだ。
今なら彼が謂わんとしたことはわかるような気がする。
彼の写真作品を、そのような空間で観てみたい。
作品を観るという行為は、儀式であり、瞑想なのだ。
儀式とは「作品と魂との対峙」であり、瞑想とは「作品と魂が融け合う」と言うことだ。
したがって、それにふさわしい時空間が必要なのだ。
川村美術館のマーク・ロスコの展示室はそのような瞑想空間だったのを思い出す。
高須英輔氏の造形作品を撮影するのは今回で二回目になる。
前回に比べると今回の自分の意識のあり方がぜんぜん違うのに気づく。
作品をどのように設置し、どのような照明をあてる時、作品の持つ何が観えるのだろうか。
撮影行為は、まさに儀式であり、瞑想であった。
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さて、ルーフギャラリー・エキシビジョン「水の刻」も明日で最終日です。
今回、自分の写真に対して、さらに色々考えが深まったような気がする。
ちょっとプロ意識というか、もっと突き詰めたい欲が湧いてきている。
写真を見てもらいながら、色々なお話を伺ったのが大きい。
オーディエンスからのレスポンスって、大事だな〜

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by wtwong | 2011-01-23 12:16 | Photo
http://219.119.62.172/live/watch.cgi?k=20110116115045&cgi=

2011/1/9江古田Buddyでの白ガラスLiveのFirstStage.
Sax:山本公成氏 パーカッション:YAS-KAZ氏 そして私。
この三人が一緒に演奏するのは、なんと40年ぶりなんだよ。
本当にすごい話だ!
時間の経過とは一体なんだろうと思う。
40年の間に何が変わって、何が変わらなかったのだろう。
自分で言うのもなんだけど、この演奏はかなりいいです。
凄い緊張感で時間が止まってしまうような瞬間が何度もある。
でも、全てがいいのかというと、そうではないと思う。
集中や緊張に耐えられなくなって、常套句や慣用句に逃げたり着地したりしている私がいます。
情けない!
スピード感あふれるシーンのところではかなりいいところもあるけど、漂うようなテンポ感の時、もっと濃密な空気感を出したい。
まだやり残していることがいっぱいあるんだな~~
大変なんだよ、音楽ってさ、、、、ははh
といろいろエクスキューズはあるけど、トータルではいい演奏だと思う。
このグループはまだまだ可能性があると思うな。。。
これらの音楽は、近代音楽や現代音楽の語法を材料に、有機性や身体性とでも言う所から、音を発現していきたい、なんて多分思っているんだけど、そう説明するのもつまんないかな、、、
この手の音楽はビジュアルイメージとしては、恐怖シーンや破壊シーンや危険なシーンとかが思い浮かべられちゃうので、その意味では深層のシャドー(影)の側面を表象していると思う。
でも、そのような意味性を排斥して、純粋に音楽的な抽象としても聴いて欲しい。
三人が織り成すインタープレーの絶妙をお楽しみくださ~~い。

さて、かっこいい映像はTETSU-LAW氏や和田氏、RYOMA氏が現場で私たちと一緒に即興的に創り上げていったものです。
それをUSTREAMのアーカイブからDLして、音声を改めてミックスダウンしたものを貼りつけました。
音のクオリティーとしてはAACの320kbpsですので、かなり良いのではと思います。
(これは間違いでmp3 128kでした。でもいい音です)
PCのスピーカだけでなくヘッドホーンやオーディオで聴いてください。
ただ、この素晴らしい映像を私の下手くそな処理のために、かなりクオリティーを下げてしまいました。
TETSU-LAW氏や皆さんに申し訳ないです。
ご勘弁ください。

さて、33分の長尺ですが、お楽しみください。
ウォンウィンツァン
2011/01/16
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by wtwong | 2011-01-17 08:03
http://219.119.62.172/live/watch.cgi?k=20110116083458&cgi=

2011/1/9江古田Buddyでの白カラス再結成Liveの第二部のYAS-KAZ氏のソロ!
三つのパーカッションを叩いていますが、最初の二つはご自身の創作パーカッション。
最初のパーカッションはとっても繊細で打楽器というよりはメロディー楽器のよう。
次なるパーカッションの胴の中に鈴がたくさんぶら下がっていて、叩くたびに一緒の鳴っている。
最後は、セネガルのタバールという破壊的な音量のパーカッション。
ビデオではわからないけど、眼の前で聞くと、その強力なアタック音に、頭がくらくらしてしまう。
YAS-KAZ氏は40年前と全然雰囲気が変わらない感じがする。
でも、貫禄が出てきたというか、ちょっと太ったかな!
ウォンウィンツァン
2011/01/16
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by wtwong | 2011-01-17 08:01 | Music
http://219.119.62.172/live/watch.cgi?k=20110116072650&cgi=

2011/1/9江古田Buddyでの白カラス再結成Liveの第二部のはじめの演奏。
聴き返すと、今ひとつだな~~
自分が求めているものの20%ぐらいしか、届いていない感じがする。
例えば、出だしは、まだ入り込みきれていないし。
途中、ピンポン玉で遊んだのって、外しているよな~
気持ちとしてはあまり深刻になりたくなかったので、遊んでみたわけだけど、お馬鹿でした。
それに、後半の下手くそなキース・ジャレット風もやめてほしいよ。
そういう事を差し引いて、、、
求めているのは「有機性」とか「身体性」とでも言うものだけど、言葉で言っても解らないよね。
実際に音として実現出来ていなければ、しょうがない。
でも、ともかくこの方向の演奏の華々しい一回目なので、思い出としてアップしときたい。
ところで、頭のフリフリは、何とかならんかな~~
ウォンウィンツァン
2011/01/16
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by wtwong | 2011-01-17 07:57 | Music
この写真を150cm×225cmほどの大きさでプリントしたわけですが、どうなんだろう。
http://www.satowa-music.com/concert/2011-01-12_24.html
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by wtwong | 2011-01-15 19:45 | Photo
今回のルーフギャラリー・エキシビジョンでは、こんな写真を展示しています。
http://www.satowa-music.com/concert/2011-01-12_24.html
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by wtwong | 2011-01-15 09:18
さて、今日から展示会が始まります。
2011年1月12日(水)~24日(月)
10時~20時 ※1/12は 19時閉店
玉川高島屋S・C (東京・二子玉川)
本館RF (屋上階)ルーフギャラリー
http://www.satowa-music.com/concert/2011-01-12_24.html

造形作家の高須英輔氏とプロデューサの高須カナさんにおされて、アマチュアにもかかわらず何度も写真展をさせていただいている。
怖いもの知らずの強みで、写真制作がとっても楽しく感じられ、音楽に向き合うのとは違う喜びを味わっている。

今回の作品群は「水の刻」と題されて、水滴たちを透過してくる光たちの織り成す造形を、自由気侭に撮影したものだ。
なかなかピントが合わずに苦慮していたところ、妻に「なんでボケてちゃいけないの?」という一言から始まった「水の刻」の、私なりのボケボケプロジェクト、是非皆さんにご覧頂きたい。

また、1月22日には、高須氏との対談、息子のウォン美音志とエスニック楽器のセッション、そして小さなパーティーをしたいと思っている。
ぜひご参加ください。
また、16日23日日曜には会場に居ようと思いますので、お会いできると嬉しいです。
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by wtwong | 2011-01-12 07:26
二十歳の頃、私にとって演奏は自傷行為だった。
鍵盤に指を打ちつけ、爪が割れ、血糊で白鍵が染まることが、私が演奏でやろうとしたことだった。
演奏は、自傷行為であるとともに、社会への復讐でもあった。
あの頃の演奏を知っている友人が「音が胸を突き刺す」と言い表したものだ。
強いこと、激しいこと、早いこと、壊れていること、許さないこと、、、
そのような演奏は、音楽ではなかった。
音楽になってはいけなかったし、音楽などどうでも良かった。
しかし、音楽のおかげで、死なずにすんだのだと思う。

演奏によって、抑圧されたもの、狂気したもの、を解放していたのだろう。
もし私に音楽がなかったら、反社会的な行為の末、自害していたかもしれない。

しかし、そのような自傷的で破滅的な演奏行為は、長く続くはずがない。
そのような音楽は、自分自身や周縁を傷つけ、疲弊させた。
数年もすると、自堕落でデカダンな生活も加担して、肉体的に精神的に続けることができなくなってしまった。
自分自身を少しずつ殺し続ける演奏行為は、早晩、破綻するのは当然だった。
私の演奏活動は挫折したのだった。

自傷行為のその本質は、何とかして自分を助けたいという、追い詰められた者の必死の転倒した表現だ。
たとえ自傷的であっても音楽には、実は自分自身を生かしめたいという、魂の本質的な叫びが滲んでいたと思う。

私は、そのような破壊作業としての音楽の向こうに「何か」が微かに見え隠れするのを感じ始めていたのだ。

「何か」とは「何か」なのだ。
明確なヴィジョンが見えたわけじゃない。
私は自分を生かしたいがあまりに妄想したのかもしれない。
険しい山の、霧に霞む頂から、私を見下ろし、微笑むミューズがいると、、、
その意味で、その挫折は「音楽の本質」と云うアテにならない夢を追い求める困難な道を歩む、新たな出発でもあった。
数年間の自傷行為としての演奏活動は、その時に終わった。

40年が経ったいま、何故かあの夢のような数年間のことをよく思い出す。
あれは一体なんだったのだろう。
「夢の解読」が常に答えを断定できないように、あの数年間のほんとうの意味は永遠に解らない。
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by wtwong | 2011-01-07 04:06 | essay