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youtubeに関西の女性たちのデモの模様がアップされています。

12.11脱原発デモ『原発いらん!女子デモ!? だれデモ!』
http://youtu.be/_-B2Y7UyNJQ

そのコメント欄に、残念な内容のコメントが書かれていたので、ちゃんと反論したくなっちゃいますね。

>原発なくせゆうならさ電気使うんやめたら?

電力会社は国民に安全な電力を供給する義務があります。
本来ならば国民には、電力会社を選択する権利もあります。
しかし日本では、欧米では常識の発送電分離がされておらず、電力会社の地域独占がまかり通り、電力を選択することが出来ません。
原発の電力を使うなというなら、送電線を国有化し、国民が電力を自由に選択できるようにするべきです。

>原発なくなってさ火力発電にしたらCO2でるゆうてまたさわぐやろ

原発もウランを生成する段階で、相当量のCO2を排出します。
最近では人類が排出するCO2が温暖化の原因ではないかもしれないという議論が始まっています。
ある方が「そーんなに温暖化が心配なら肉食ヤメレ(牛のメタンガスはCO2の20倍の温室効果)」と言っています。

>原発の安全性なめんな たった一回の事故でやめてられへんは

原発の安全神話は、福島第一原発の事故で地に落ちました。
原発が始まって以来、度重なる事故があり、そのほとんどが隠蔽されてきたことが発覚しています。
もしもう一度、事故が起これば、日本は終わります。

>日本の総発電量の原発の割合しってるん?関西はとくに原発にささえられてんねんぞ

日本にある54基の原発のうち、今実際に働いるのは6基(2011/12現在)ですが、全て止まったとしても電力を供給できることが判っています。
なぜなら、原発という不安定な発電を補うために火力発電や水力発電のバックアップがあるからです。

>原発で働いてる人とかの職をうばいたいん?

被曝しながら働くより、自然エネルギーによって創出される新しい職場を得たほうが、健全です。
ヨーロッパでは自然エネルギーによる新しい雇用がどんどん生まれてます。

>原発なくなってこまるん だれや あほか

原発がなくなっても普通の人は困りません。。
もし困るとしたら、過剰な電気料金や、総括原価方式など、私達の税金で潤っている原子力ムラの人々、財界、官界、政界、マスメディア、お抱え科学者などですが、あなたも困りますか?

>市場にでてる食べ物は放射線の基準クリアしとるは

市場に出ている食べ物の、相当量が汚染されていることがどんどん発覚しています。
国は暫定基準より新基準では飲料水や牛乳など、厳しくしましたが、チェルノブイリよりも甘いと言われています。

>原発のせいで死んだ人おるんか? おらんのに騒ぐな

原発事故によって、避難する時に多くの方が亡くなりました。
また、自殺された方も多くいます。
それだけでなく、放射能汚染のために故郷を追われたり、仕事を失った方や、家族が離散した方がおおぜいいます。
たった一回の事故で、日本が滅びるかもしれないほどのダメージを受け、これからも受け続けます。

>迷惑 放射線こわいなら日本からでていけ

なぜ原子力発電所を地方の過疎地に作るのでしょうか?
なぜ都会の真ん中に作らないのでしょうか?
福島原発事故のために、なんと多くの方々に迷惑と、犠牲と、税金を使っていることでしょう。
私たちにとって原発は迷惑そのものです。
是非、日本から出て行って欲しい。
でも世界が迷惑しますから(海洋汚染のため世界も迷惑しています)やはりいち早く止めるべきですね。

>日本のためになんかしたいなら 原発で死人でてから うごいたらいいやん まだやねん まだはやいから反発くらうねん やってることは間違ってないけど 時期がはやいとおもう もうしばらく原発のようすみませんか?

原発は原発マネーで潤っている人以外は迷惑そのものですし、原発が日本に誘致されて以来、ずっと国民の犠牲の上に成り立っています。
もうこれ以上、原発はありえないと思いますし、二回目の事故が起これば、日本は終わります。
もし今回の原発事故をしっかり検証し、原発マネーに染まっていない、中立的に安全を守れる仕組みが出来れば、それもありうるかもしれませんが、それはまず無理だということは、今の政府や官界を見れば自明です。
安全な原発など現実にはありえないのです。

>落ち着きましょ

はい、落ち着いて、しっかり脱原発に声を上げましょう。
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by wtwong | 2011-12-21 23:35 | essay
私たちも勿論、この宇宙の全ては「マボロシ」なのだと般若心経はうったえています。
そして、森羅万象すべてリーラ(宇宙的遊戯)なのだと、古代インドの先達たちが言っています。
脱原発も、スピリチャリティーも、人間関係も、全てマボロシであり、リーラなのだというのです。

私たち魂は肉体を与えられました。
その事によって、苦しみや怒りや悲しみ痛み、あるいは喜びや恍惚、戦うことも愛しあうことも、感受し包容することを許されたのです。

宇宙は私たちにこのように呼びかけているように思えるのです。
「これらのマボロシは全てあなたのために用意しました。
あなたは肉体を持つことによって、あらゆる体験の可能性が与えられました。
<生きている>ということを体験することが許されたのです。
過去も未来もありません。
<今を生きなさい>
今、成したいと思うことを成しなさい。
そして十全に生きる喜びを受け取りなさい」

私は脱原発だけでなく、
音楽や、
人とのふれあいや、
すべてを通して、
今を十全に生きたい、
そう願っているのです。
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by wtwong | 2011-12-20 21:59 | essay
平和運動や環境問題に取り組んでいる人もそうだけど、脱原発運動を続けていると、燃え尽きたり、心折れてしまう人が出てくる。
無理もないと思う。
事態はなかなか好転しないし、周りからの理解を得られず孤立してしまう。
運動にのめり込んでいる人ほど、どうすることもできないような袋小路に入っているような無力感や焦燥感にさいなまれてしまう。
福島など線量の高い地域にいる子供たちや妊婦さんを思うと、いたたまれない気持ちになる。
彼らのブログなどから、実情の悲惨を知るにつけ、心が引き裂かれる思いを持ってしまう。
東電や政府の欺瞞や悪徳に、怒りが爆発しそうになる。
そして、彼らに対する怒りを向けている自分自身にも傷ついてしまうのだ。
平和運動や脱原発運動にのめり込む人の殆どは、精神的にとてもナイーブな人が多い。
間違っていること、人が苦しんでいることを見ないでいること、そういう事が許せないのだ。
311以降、私たちは社会の悪というものを目の当たりにしている。
脱原発に声を上げていくことは、人間として、余りに当然の事のように、私には思える。

原子力ムラの執着と結束は相当なものがあると思っていた。
国民の脱原発指向は95%以上にも関わらず、経団連300社はSB社を除けば、全社推進派だ、、、
東電の株主総会では、あれだけ地域の人々の犠牲と、日本や世界に迷惑をかけながら、反省するどころか、ほとんどの株主もやはり原発推進。
過剰な電気料金や原価総括方式という打ち出の小槌を、それがどんなに他の人の犠牲の上にあろうとも、手放したくない。
それを「経済の活性化」などと言うのは詭弁も甚だしい。
私たちは其の様な厚顔無恥で人の犠牲などお構いない、人間性が歪んでしまった人々を相手に戦っている。
傷つきやすい分、あるいは不利なのかもしれない。
しかし其の様なナイーブな感性、他の人の痛みを感じとることができる受容力があるからこそ、社会の歪が許せないし、戦うことを選択したのだ。

311から9ヶ月が経った。
私たちの戦いはまだ続くだろう。
多分、長期戦になるかもしれない、たぶん、、、。

私達が、困難な脱原発運動を、戦い続けるためには、それなりに「魂の戦略」が必要になってきたと、私は思う。

のめり込み過ぎて、疲弊している人に「やりすぎるな」というサゼッションが飛んでくる。
そのようなサゼッションをする人は、運動の何たるかを判っていない。
のめり込まずにすむ訳がないのだ。
しかし、のめり込み続けることは、やはり人間はできないのも確かだ。
もし出来うるなら「原発は私が止める」ほどののめり込みと、そんなことは私の人生には何の関係がないと思えるぐらいの距離のとり方の、双極を自由に横断が出来ると、どちらもパワフルになってくる可能性がある。
全面的に関わる時と、その事から切り離す時のメリハリ。

世界から戦争と原発の全てがなくなることをイマジンしながら、夢に拘泥しないしたたかさ。
頭(観念)に登り切った血を、肉体に戻してやる時間や方法を持つこと。

脱原発や平和運動というものに携わっている自己イメージを高めることも重要だ。
その事に関わっていることが自身の存在と命を高めていると実感できること。
つまり、その事に携わっていることが「生きがいなのだと」ぐらいに喜びを感じていること。
311以前、私たちはこんなに社会問題に向き合うことがあったろうか。
私たちは成長したのだ。
脱原発運動に携わる時、私はワクワクしている自分に気づいている。

一番消耗するのは、無力感と、周りや社会の無理解や、動いてくれないことへの苛立ち、、、
自分を高めるチャンスなのだ。
可能な限りの最善の運動をしながら、その結果に対し、手放すこと、こだわらないこと、囚われないこと。
飄々(ひょうひょう)と、屹然としつづける魂の強さ。

人類が始まって以来、いや、ビッグバン以来、この世界は起こるべきことが起きていている。
それはすべて必然的に運命づけられている、と感じられると、社会的な自分というものを手放すことができるようになる。
実は、原発を推進する人も、無関心な人も、それぞれの役割を演じているにすぎないのだ。
なにが起ころうとも、あるいは福島の原発事故さえも、すべては起こるべくして起こり、ビッグバン以来、宇宙が進化し続けているように、私達人間の進化のために起きていることなのだ。
311以前、私たちはどうだったか。
無自覚だっただけじゃないか。
しかし今、私たちは目が覚めた。
不謹慎を承知であえて言うなら、原発事故のお陰で、私たちは成長したのだ。
私たちは二度と戻ることのない、成長の途を歩んでいる。

私たちは怒っている。
私たちは大いに怒らねばならない。
しかし、頭だけで怒り続けると、エネルギーが滞り、実に具合が悪い。
肉体に戻してやらねばならない。
私はピアノを大音量で叩き続けることがある。
指ではなく平手や肘で叩くこともある。
私設のスタジオから音が漏れてしまうのだが、一向にかまわない。
ピアノは相当頑丈だ。

古代インドの宗教的、哲学的、神話的叙事詩に「マハーバーラタ」がある。
ヒンドゥー教の聖典のうちでも重視されるものの1つだ。
同族同士の戦いが大きなテーマになっている。
勇士アルジュナは、自分の肉親や友人たちと戦うことが出来ない。
かつて親しかった彼らに剣を向けることなど、どうして出来よう。
するとクリシュナ神があらわれアルジュナにメッセージを与えるのだ。
「ヨーガスタ・クル・カルマーニ」
ヨーガ(宇宙の意志)に繋がって、行動せよ、と、、、、
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by wtwong | 2011-12-20 03:49 | essay
たとえば、相手のために何か正しいことをしようとする。
たとえ本人が拒否しても、それはするべきことだろうか?

それとも、たとえ相手の動向が正しくなくとも、それを尊重し静観すべきか?
もしかしたら生死に関わることであっても、それは静観するべきか?

前者は、多くの場合、相手はそれが正しいとは思っていないし、余計なおせっかいだと思わることも多い。
もしかしたら、相手の意向を否定するのであるから、リレーションは難しい物になってしまうだろう。
しかし、その事によって相手が助けられたら、リレーションは回復するかもしれないし、より深いものになる可能性もある。

逆に、強制は相手の意向を否定するので、たとえ相手が助けられるようなことがあっても、感謝の念はわかないかもしれない。
それでも「正しいこと」をした者は、感謝は得られなくとも、自己満足はするのかもしれない。
しかし殆どの場合、相手の選択を無理やりやめさせることも、正しいと思われることを強制することもできない。

後者の場合は、尊重が相手の心を開かせ、リレーションは深くなるかもしれない。
保たれた関係性の中で、根気よく会話を通わせながら、心を変えさせることもあるだろう。
しかし、最悪の場合、時すでに遅しで、命を失わせる結果になるかもしれない。
その場合、無為でいた自分を責めることになる場合もある。
なぜあのとき介入してくれなかったんだと、逆ギレされることもないとは限らない。

答えはない。
選択はその時々のさまざまな要因や条件によって、恣意的に決められていく。
正しい選択など無いのだ。

生死という、ある意味究極な状況を設定して考察を進めるのは、あまり意味が無いかもしれない。
殆どの場合、それが命に関わるかどうかすらわからない。
それに、相手が拒否する以上、たとえ正しいからといっても、強制することはできないからだ。
さらに、それが「生」だから正しく、「死」だから間違っていると、実は言い切る根拠はない。
相手は、無意識下で死を選択しているのかもしれないのだ。
しかし、目の前で腕に刃物を当てている人を、何もせずに静観できるとしたら、人格として何かが欠落している。

あらゆる場合で、事情はもっと複雑だ。
相手も当人も、それが正しいと言い切れない場合が多い。
正しいと言い切っている人は、相手の言い分を聞くことがなく、其の様な決めつけや押し付けは、よりいっそう相手の拒否を招くだろう。

親子の場合、日本の母親は子供に対して過剰に介入し過ぎで、子供の自分で物事を判断する能力の成長を妨げていると、私の師匠が指摘していたことがある。
たとえ正しくない選択だとしても、本人が体験し、それを修正することによって、正しい道を学ぶ場合と、用意された正しい道を無自覚に歩んでいる場合とでは、自ずとその認知の深さは変わってくる。
間違っていても、一度は歩むべきなのかもしれない。
しかし、取り返しのきかない場合もあるわけで、その時は親が介入しなければならない。

逆に介入しなさすぎる親もいる。
(ネグレクトのことではない。それは親の責任放棄だ。)
その場合、子供の自主性は育つかもしれないが、独善が強く、身勝手な子供にならないとも限らない。
大抵の場合、若者の独善や身勝手は私は歓迎したい。
日本の教育は、若者のエネルギーを損なっていると、私には思える。
若者はいつか、成長のプロセスでそれが独善や身勝手で、それでは人はついてきてくれないことを学ぶ、はずだ、、、

介入好きな人は、相手が変化しないことに勝手な失望をだく場合が多い。
せっかく正しいことを教えてやったし、その時は納得していたのに、結局何も変わらんじゃないか、、、
其の様な人は、自分の介入は正しく、人はそれに従うべきだという傲慢から抜け出ていない。

相手の意識を自分に向けさせるために、介入を誘う人も多い。
疾病利得というのがそれだ。
自分が病むことによって、相手の注意をひくのだが、、、、

介入する場合でも、それが自分のもしかして独善による、一方的な押し付けにすぎないかもしれないという自覚を持たねばならない。
介入を拒否され、正しい自分の提言を受け入れない相手を批判するのはもっての外だ。
相手の主体性を尊重せねば、リレーションなどありえないだろう。

介入するか、あるいは静観するかは、その時その時のあらゆる要因の総体的な結果を、論理よりも直感によって感じつつ、その時その時に即応的に判断し続けるしか無いのだと思う。

全面的な介入や、また全面的な静観はありえない。
その時々で度合いやタイミングというものを図る、絶妙なスキルも問われることになる。
相手を尊重しつつ、必要な時に、最も必要なものを提示できるかどうか、其の様な心の技術は、人間としての奥行きを持っている者にしかできない。

人間としてこの社会に生きているということは、お互いに何らかの介入を、し合うということなのだから、一方的ではない、本当に相手を「愛するところ」から、介入と静観とを、送り届けるものでありたい。
そう思い至った昨今である。
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by wtwong | 2011-12-18 12:06 | essay
「脱原発に方向転換されては、従業員の生活が困る」電力労組、民主議員に組織的な陳情
http://t.asahi.com/4r9l

どんな人も、自分が働くことによって、他人が喜ぶ顔を見たいものです。
しかし電力会社の従業員の皆さんは、他人の犠牲の上で成り立っている生活しています。
それでいいのでしょうか。
搾取ではなく、日本の将来に貢献し、自分たちの将来も安心して働ける、新しい電力事業に変革する時が来たと、考えることはできないでしょうか。

被曝による危険の中で低賃金で働くウラン鉱山の労働者。
原発ジプシーと言われている労働者たちも散々ピンハネされていて、使い捨てられれている。
原発立地の地域住民は分断され、家庭崩壊したり、故郷や仕事の誇りをもぎ取られ、まるで麻薬患者だと言われています。
処理方法も決まっていない放射性廃棄物の危険は何十万年と続き、未来に大きな負債を残している。
不必要に過剰に払わされている電気料金や税金。
隠蔽や改ざん、プロパガンダをせねば続かない原発運営。
今回の福島第一原発事故を顧みれば判るように、ひとたび事故が起これば誰も止めることが出来ません。
飛散し続けている放射能汚染によって様々な悲劇を起こし、不安と怒りを日本中に振りまいている。
べらぼうな補償金額は結局国民の税金に頼らざるを得ない。
保証されない被害者もいっぱいいます。

放射能汚染で故郷や仕事から追われた人々は、いやがおうにも新しい生活を始めています。
電力労働者の皆さんも、あるいはそうするべきなのかもしれません。
あるいは、日本の将来に貢献できるような、皆に喜ばれるような、安全で持続性のある非枯渇エネルギーによる電力事業に力をそそぐべき時が来たと、私は思うのです。

未曽有の原発事故を体験し、今までと同じやり方が通用するわけがないことを、本当は気づいているはずです。
犠牲や搾取の上に成り立つのではなく、人々に役たち、日本にとっても電力従業員にとっても、将来、安心して続けられるような電力事業のあり方を、自分たちに嘘をつかずに、本気で考えて欲しいと、私たちはセツに願っているのです。
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ウォンウィンツァン
2011/12/02
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