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「ああ、ついにその時期が来たんだな〜」慌ただしく実務的な対応に追われながら、意識の遠くで感じている静かな感慨に浸っている自分がいた。どのような家庭でも必ずやって来るありふれたことでありながら、やはりそれはとっても個別な体験なのだ。人生の最期にやってくる荘厳なセレモニーの、今日はその最初の日だ。

93歳になる父は10日ほど前に転倒し、その後、脇腹の痛みを訴えていた。何か事があったら連れて行こうと、予め決めていた病院に連れて行った。其処は在宅訪問診療の草分け的な病院だと聞いていたし、なにより自宅から車で10分の距離だ。整形外科でレントゲンを撮ってみると三本の肋骨が折れていた。大事に至る程ではなかったので、湿布薬と患部を固定するベルトだけが処方された。その後の父の様子を観察して、ある限界に来たと私は判断した。

父のような性格の人間は、人に面倒を見られることを極度に嫌がる。あくまでも自分で出来ることは最後まで自分でやりぬく意志の強い人だ。なので、私達もギリギリまで彼の生き方を邪魔せずに、静かに見守っていた。しかしそれも叶わないほど、衰弱しているのがわかる。

今まで出来たことが出来なくなる。食事や排泄や、だれでも遣れることが、徐々に出来なることが老化ということだ。そして、否が応にもそれを受け入れねばならない。その時がきたのだ。老人介護認定の申請をせねばならない時が来たのだ。

私はひとりで病院に赴き、担当医である吉澤明孝医師に面接した。父の状態を説明し、そして次のように告げた。「、、、まあ、出来ることなら、自宅で最期まで、、、と考えているのですが、、、」その時、吉澤医師の全身がパッと光ったように感じられた。彼はそれから、家族構成などを聞き、本当に在宅介護ができるのか、私の意志も含め、確認した。

本当に在宅介護を最後までできるのか、私にはわからない。長引けば家族は疲弊してしまうだろう。慣れないことも沢山ある。病院に入れてしまえば、そのほうが楽だろうとも思う。それに特別強い意志があるわけでもない。なぜか、それが当然の事のように思えただけなのだ。

自宅での看取りは、今の日本では普通のことではないのかもしれない。しかし、心ある医師や地域では、そのような試みを始めている。その中でも吉澤医師はその道のスペシャリストだ。この医師に巡り会えたことは、なんとラッキーな事だろうと思う。

病院を出ると、早速ケア・マネージャーから電話が入り、今から自宅に来ると言う。自宅に来ると、情況を判断し、介護プランを提案し、手配もしてくれる。介護用のベッドが土曜日には来ることになった。費用はなんと1/10だ。日本の保険制度の素晴らしさに感嘆する。この制度は守らねばいけない。TPPなどに入っちゃダメだと、強く思ったものだ。

私たちはベッドを入れる部屋の片付けを始めた。その部屋には捨てられない症候群の父親の書類関係が山のようになっている。びっくりするほどの量の不必要になった書類や本や新聞の切り抜き。不要といっても、過去の存在の証でもある。私達はそれを振り切るように、手際よく、取り付かれたようにすごい勢いで、父親がこれから多分最後まで過ごす事になる聖なる場所を確保した。

その部屋には仏壇があり、今までに亡くなった先祖たちの位牌がある。私たちは仏教徒ではないが、この家が新築された時、母が設えたものだ。81年に母は59歳で亡くなり、その後は父が毎朝手をあわせている。「ママ、ワイロック、ジョウサン」毎朝欠かさずそう声をかけていた。ワイロックとは2007年に49歳で亡くなった妹の名だ。「ジョウサン」とは広東語で「おはよう」ということ、、、

私は時おり、おざなりに手を合わせるぐらいで、実に信心深くない。仏壇を眺めながら、私は急に位牌や仏壇を綺麗に拭き始めた。そして位牌に刻まれている先祖たちの命日や享年を確認し、なんとも言えない想いが沸き起こってきた。仏壇の奥には亡き母が写経した般若心経が数枚出てきた。小さな銀紙の鶴の折り紙や、手びねりのお地蔵様まで出てきた。私はそれらのホコリを払いながら、祈りの想いが膨らんでくるのだった。

仏壇を作り直し、それぞれを配置し、そしてそうするのが自然なこととして、静かに手を合わせた。「ママさん、楽ちゃん、たのむよね、、、」そう心でつぶやいた。

2013/07/05
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