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美しい映画「風立ちぬ」
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 「風立ちぬ」を見たのは9月5日だったが、すぐには論評できなかった。なんとも言えない不満感、不全感が残ったのだが、それが何故なのかよくわからなかった。反戦映画でもない。それ的なセリフは多いし、戦争の矛盾を見抜く眼力もすごい。しかし面と向かって戦争を否定してはいない。そのための映画じゃない。恋愛映画として見るなら、たしかにその部分が一番比重が大きいように思えるけど、とっても淡泊。堀越二郎という人間の非人間性の描写としても、半端な感じは残る。飛行機マニア映画なのかもしれないけど、私にはわからない。例えば魚の骨から新しい翼を発案するところなどは、なかなかよかった。でもそれが描写したくて作られた映画じゃない。

 そして何よりも映像のどこをとっても美しかった。宮崎駿作品はいつも美しい。でも映像美だけでは映画にならない。なんだろう?と思いつつ、幾つかの論評を読んだり、youtubeのコメントを見たりしていた。それでも今ひとつ腑に落ちずにいた。矛盾の描写ということでは、戦争の矛盾、一人の技術者の抱える矛盾は描かれている。でもそのことで葛藤はない。そう葛藤は希薄なのだ。

 映画そのものの印象を大切にしたいと思い、パンフレットを見なかったのだけど、なにかヒントがあるかもしれないと思い、奥さんが買ってあったのを読んだ。そこには宮崎駿自身が書いた「企画書」が載っていた。思わず「なんだ!」と合点がいった。「風立ちぬ」はまさしく監督の企画書通りに作られている。寸分違わず企画書通りに作られた映画なのだ。

 そこには最後にこう書かれている。「描かねばならないのは個人である。リアルに、幻想的に、時にマンガに、全体に美しい映画を作ろうと思う」、、、そうだ、ほんとうに美しい映画だった。飛行機も、日本の家屋も、夢の中も、緑も、街の風景も、、、そして堀越二郎も、菜穂子も、登場人物すべてが美しい有りようだ。

 そしてようやく私の不全感がなんであったのか気づいたのだ。私が欲しいていたのは「醜さ」だったのだ。もう一度「風立ちぬ」を見に行こうと思う。「醜」を求めずに「美」だけを堪能しに行こうと思う。「美」だけの映画があってもいいではないか。その時自分がどのように感じるか、、、、やはり不全感か、それとも感動か、、、
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by wtwong | 2013-09-27 04:12 | essay
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エゴ(自我)をなくそうとするのは、私には実に馬鹿げているように思える。
年齢や経験や考え方によって、エゴは変容し続ける。
成長とは、エゴの許容量が増え、物事を相対的に見ることが出来るようになることだ。

エゴが無くならないことを嘆くのではなく、自分のエゴの未熟を嘆く方がいい。
エゴというものは、生きる上で本当に大切なことに気づいてほしい。
エゴが成長するに従って、エゴの境界は希薄になり、より多くのものを受容できるようになる。
たとえ相手が間違っていても、いつか気づく時があることを知っている。
自分の間違いに気付いたら、プライドを捨てて謝罪することが出来るようになる。

自分が信じていることが、幻想にすぎないことに気づく。
気づきの連続が、少しづつエゴを大きなものにしていく。
あなたの愛はますます大きなものになっていく。
自分を愛することをエゴだと勘違いして取り除こうとしてはいけない。
自己愛とエゴイズムは対極的なものだ。
自分を愛せる人は、他人も愛することが出来る。
他利的なことが、自分の喜びになる。

エゴを成長させるのは、経験と気づき、、、
囚われや、幻想はエゴの硬化させてしまう。
囚われやこだわり、幻想の源は、実は心の傷にある
お母さんのお腹に宿った時から今日までの間に受けた、心の傷、魂の傷、意識の歪みが、囚われやこだわりを産み、人間をエゴイスティックにしてしまうのだ。
自分自身に向き合うことがわたし達のエゴを成長させる。

若い人たちはエゴが未熟で軟弱なため、硬化させるために腐心する。
それを否定しないで、暖かく見守ってあげよう。
誰もが歩む人格の成長の道なのだ。
必ずいつか、ほころびが出る。
他の人とぶつかって、怒ったり傷ついたりするだろう、必ず、、、
その時にエゴをより硬化させ、小さくさせてしまうか、あるいはエゴを捨てようと宗教的な幻想に走るか、それとも、より大きな自我へと自分を成長させることが出来るか、それはその人の運命なのかもしれない。
少なくともそんな若者にあなたがそばにいるなら、あなたのエゴの在り方は、彼らの人間観のサンプルになることだろう。

エゴを主張しない人は、相手のエゴも許せない。
主張するのではなく、エゴを相手に受け入れてもらおう。
その時、相手のエゴも受け入れられるようになる。

宗教的エゴ観というものはほとんどが幻想だ。
エゴを捨てたものではなく、より成熟したエゴを獲得したものこそがホンモノの聖者なのだ。
世に聖者として認められたほとんどの人は、私からは、歪んだ病的なエゴイストしか見えない。
巧妙な言説で魅了する聖者たちのなんと罪深いことだろう。
盲目的な信者たちが目を覚ますのは何時だろう。

愛する人のエゴを見たら、微笑んであげるがいい。
それはあなたのエゴでもあるのだから。
囚われやこだわりを捨てた時、エゴが大きくなり成長することが出来る。
彼らの成長は、私やあなたの成長でもある。

わたし達は魂がその肉体を離れるその時まで、自我の成長のプロセスをたゆまなく歩んでいる。
大きな自我を持っているものは、あたかも自我を捨てているかのようにみえるかもしれない。
それは自我が無いのではなく、より大きく、より希薄になっているのであって、小さなエゴの持ち主からは見えにくくなっているだけだ。

わたし達の人生の目的は、自我を無くすことではなく、自我を無限大に成長させることだ。
大きくなれば大きくなるほど、生きることが容易いものになり、喜びも大きくなっていくだろう。
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by wtwong | 2013-09-26 09:17 | essay
もし、グルやスピリチャル・リーダー、セラピストがあなたを自分に依存させようとしたなら、あなたは一目散に逃げた方がいい。
彼らはあなたを導く、ホンモノのグルではない。
依存は、あなたの覚醒、目覚め、悟り、開放を遅らせるだけではなく、最悪の場合、立ち直れなくなるかもしれない。
あなたを「導いて上げよう」というものがいたら、最大限に注意深くなった方がいい。
自分で考えることをやめたものが、再び自分で考えられるようになるには、再訓練が必要になり、結果的に自立は大きく遅れることになる。
現代社会において、古代インドやヒマラヤの山奥であり得た、グルと弟子の一対一の関係はもうあり得ない。
それに、山奥で修行した覚醒者は、この現実世界の問題に何の対処もできない。
「献身のヨーガ」を実践したいのであれば、グルにではなく、社会に献身したほうがよほど学びは大きいだろう。

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覚醒(エンライトメント)や開放、目覚め、悟りを、最も早く得られる道は「カルマヨーガ」すなはち、この現実社会を体験しながら、社会に献身しながら、瞑想修行や心理メソッドを重ねることだ。
自立して、社会の中に身をしたしながら、社会を超えた次元を生きること。
学びながら、自分で考え、自分で間違え、自分で正しながら、一つ一つ生き切ることだ。
そしていつか気づくだろう、あんなにも求め続けていた「エンライトメント」が、もうどうでもよいことのように思っている自分に。
悟りというものにとらわれていない自分に気づくだろう。
それにも関わらず、生きているだけで、エンライトメントへの道、悟りへの道を歩んでいることにも気づくだろう。

与えられた命を生き切ることが、
「魂の道」なのだということに気づくだろう。
そのような者を「開放された者」
そして「本当に求め続けている者」と言うんだよ。
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by wtwong | 2013-09-08 10:12 | essay