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 昨年12月中旬、平和をテーマにした曲を作りました。
突然何かが解ったような気になって、言葉が降って湧くように、一日で作詞してしまいました。曲自体は30代の中頃に作ったものですが、ずっとそのままに放っておいたメロディーを思い出し、詞をつけました。
 2011年3月11日の震災と、その後続いた原発事故を契機に、政治のこと、社会のことをツイッターやフェイスブックや本などを通して勉強し始め、5年近くなってようやく「世界」というものが朧気ながらも見えてきたと、まあ幻想かもしれないけど、そんな気になってきたところでした。
 昨年11月の浜離宮朝日ホールでそんな自分の社会観、世界観、政治観をお話したわけですが、どうも自分的にしっくりしない。言葉と音楽がブレンドしない感があり、なんとも言えない心残りがありました。勿論、自分なりの精一杯のコンサートでしたから、後悔はありません。それにあのコンサートは自分の成長のプロセスにとって必要なことでした。つまり何か自分の変化の契機なったという手応えは強くありました。
 そして、そのコンサートのアンコールに演奏したジョン・レノンの「イマジン」の歌詞を自分なりに解読する内に、何かが解った気がしたのです。イマジンの歌詞は「夢」を語っています。人間なら誰でもか無意識の奥底で見ている根源的な「夢」が語られていると感じました。その意味でイマジンは永遠のテーマを語っているとも思いました。ジョンのメッセージは政治的なものなどではなく、スピリチュアルなメッセージなのだと得心しました。
 そう思い至っとき、何かスイッチが入ったように、一気に書き上げたのが「光を世界へ」という曲でした。人生初めての作詞です。この曲が私にとって、今の社会への答えになるのかなと、そんな気がしています。この曲はWe are the World的に、友人の歌い手たちにリレーで歌ってもらいます。また、大事なコーラス部分では、皆さんもよくご存知のグループにお願いしました。今、CD制作の準備でいろいろ動いていますが、なんとか3月中にはリリースしたいと考えています。その時はぜひ応援してください。
 ここだけの話ですが、つまり表立っては言わないけど「平和憲法9条を守りたい」という思いがあって作った曲です。。。
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by wtwong | 2016-01-20 12:45 | Photo
「内臓さん、有難う!2016/01/14」
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 きのう、腹部超音波検査というものを受けた。妊婦さんなんかが受けて、お腹の中の赤ちゃんが映しだされている映像は見たことがあるけど、自分が受けるとは思いもよらなかった。初めての体験でワクワクどきどき。お腹にゼリーを塗って、一通り検査が終わった後、先生がディスプレーを見せながら、私に説明をしてくれた。「これが肝臓ですね。疲れているとギザギザが出るんですが、キレイですね。これが大動脈で一番大きな血管ですね、、、」などと、内臓の一つ一つを見せてくれた。肝臓、腎臓、膵臓、脾臓、胆嚢、膀胱、前立腺、全部異常なし。「きれいですね。問題無いです。」やった〜〜無罪だ!みょ〜に嬉しかった。と言うか、ほとんど感動していた。

 癌などの問題がなかったからということもあるけど、なんか、自分の内臓を見る体験は初めてだった。ディスプレイで映しだされるそれぞれの内蔵は、実に個性的な形で、それぞれ息づいているように見えた。普段意識することがない自分の内臓が、それぞれが、それぞれの役割を一生懸命働いて、私という生命体の全体を支えている。私という命はそれぞれの躍動によって保証されているんだ。

 なんかそう思い至ると、じわ〜〜と感動と、感謝の気持ちが湧いてきた。普段無意識の向こうにいて、密かに、でもしっかりと私を支えてくれている。彼らのおかげで私は日々、考えたり、行動したり、ピアノを弾いたり、ひとと会話したり、愛したりすることができている。ああ、「内臓さん達、ありがと〜〜。大切にするから、これからも宜しくね〜」と言いたくなってしまったのでした、、、とは言え、たぶん、お酒とか呑んだり、仕事やり過ぎたり、遊びすぎたり、しちゃうんだろうな〜〜その時は、よろしく〜〜(^_^)/~
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「永遠のテーマに直角に向かう」
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 人間はだれしも、必ず、根源的な永遠的なテーマを持っています。それは例えば「永遠の母」であったり「永遠の父」あるいは「永遠の子供」「永遠の聖なるもの」などなど、、、ユングはそれらをアーキタイプといった言い方をしていたと思うけど、同じことかどうかは私はちょっとわからないけど、、、人は無意識の一番奥底に、これらの永遠のテーマが横たわっているのだと、私は思っています。
 吉福伸逸さんのワークショップは、様々な入口から入りますが、結局最終的に、そこにたどり着こうとしていました。自分の永遠のテーマに直面する。さまざまなゲームなりワークを通して、人間の根源的な希求、覆い隠されている永遠なるものへの邂逅、それを目指していると言っていいと思います。
 でも世の中的には、そのようなことは無自覚で、でもそこから思い切り振り回されているのが社会であり、実は現代社会の歪を作っていたりします。様々な形で表出していますが、その典型的なのが原爆や原子力です。今はそこは深入りしませんが、、。
 私が此処で述べたいのは、そのテーマ、人間の最も根源的なテーマ、「永遠なるものへの邂逅」を得たものは、まあ言ってしまえば、そこから開放される。無意識レベルから突き上げてくるエネルギーに振り回されることがなくなり、世界がニュートラルに見えてくる。
 出会っていない人は、無自覚にそのエネルギーに振り回されて最後まで生きねばならない。まあ、振り回されても生きていけるので、殆どの人にとってどうでも良いテーマなんですけどね、、、いや、戦争になっちゃったら終わっちゃうか、、、
 でも、一部の人、なんというか、私のような変人はそれに出会いたい、永遠なるものに邂逅したい、という強い希求があるわけです。
 その意味で吉福さんのワークショップは大変ラジカルで、パワフルでした。永遠のテーマに直角に向き合い、ダイレクトに直面しようとしています。世の中には様々な心理療法やスピリチュアルワークがありますが、それがどんなに新しい、斬新なメソッドであっても、その事にフォーカスが薄いものは、なんとも生ぬるい、中途半端なものにしか、私には思われません。
 「永遠のテーマに直角に向かう」そのことを可能にしているワークは、どんなワークであろうとも永遠に古くならないし、そうでないものはいつか流行が終わり、廃れてきます。
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by wtwong | 2016-01-20 10:24 | essay
<知性と、弱さのこと>
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 数日前にブログ「知的であるかどうかは、五つの態度でわかる。」をアップしましたが、意外とたくさんの方がシェアしてくれて、関心が高いことに、驚きはしなかったけど、なるほど〜と思いました。
このテーマにはいろいろ奥行きがあると感じました。
私は茶化して「無い爪は隠せない、、、」なんて書いたりしましたが、ちょっとまじめに思うことを書いてみます。

 ブログの最後に「知的である、というのは頭脳が明晰であるかどうか、という話ではなく、自分自身の弱さとどれだけ向き合えるか、という話であり、、」と書かれています。
この「弱さ」と言うのがキーポイントだというのです。
そも、その人が知的であろうとなかろうと、誰でもが「弱さ」をもっています。
つまり萬人のテーマなんですね。
ただ、ここでは「弱さ」とは何か書かれていません。
それに「弱さ」に対するものは「強さ」だとは書かれていません。そこが肝心です。

 筆者が処方する「態度」を見ると、むしろ「柔軟」であるとか「受容力」だったり「相対的に物事を見る」というような視点やスタンスを「態度」と言っているように思います。
そして最後に「大変な忍耐と冷静さを必要とするものなのだ」と書かれていますが、忍耐とか冷静さって、限界があるので、それだけでは「弱さ」は取り除けなさそう、、、、
逆に言えば「弱さ」の本質を知るなら、忍耐や冷静さがそれほどなくとも、自ずと「態度」は楽になって、コミュニケーションもスムーズなり、なによりも人生、生きやすくなりますよね。

 すいません。ここまで書いて、だんだん面倒くさくなってきてしまいました。(汗)、だってこのテーマだけで一冊本が書けちゃうほどですから、、、
大雑把に要点を言えば「弱さ」とは「自我」と「アイデンティティー」に関わるということです。
「弱さ」を感じる時、つまり揺らいだり、不安になったり、怒りを感じたり、人に対して高飛車になったり、自己嫌悪やコンプレックスに落ち込んだり、プライドが傷ついたり、そんな時は「自我」や「アイデンティティー」が脅かされている時なんですね。

 大辞林には「自我とは、自分、自己、意識や行為をつかさどる主体としての私、、、」などと書かれています。
つまり「自分というものを成り立たせている、様々な心的な<鎧>」のことですね。そしてアイデンティティー(自己同一性)とは「時や場所を超えて一個の人格として存在し、自己を自己として確信する自我の統一性、、、」とかって書かれています。
これは、例えば私だったら「音楽家」とか「在日二世」とか「男性」「父」「夫」「長男」というのもアイデンティティーだし、その人をその人として「社会への顔(面)」を成り立たせているものですね。
ペルソナとか言ったりします。

 もうお判りだと思うけど、自分を自分として成り立たせているのは「鎧」であったり「社会の面」であるということは、必ず揺るがされるということです。
必ず壊れるということです。
それは内側、無意識からの攻撃であったり、外部、人間関係、社会規範からの攻撃であったりするわけです。
たとえどんなに強い鎧も、鎧であるかぎり、必ず壊れます。
「社会の面」もいつも危険に晒されます。
例えば「音楽家」は常に優れているかどうか、好みかどうか、美しいかどうか、才能があるかどうか、様々な物差しで、聴衆から、それに自分自身からも、評価に晒されます。

 例えば今回のブログのテーマは「知的、知性」つまり知的エリートたちと言う人に向けられているけど、彼らの自我の鎧というのは、たいてい「言葉」だったり「論理」だったりするわけです。
論理武装というやつですね。
つまり「異なる意見」「無知」「知識の優劣」という尺度で常に危険に晒されます。
つまり異論は「自分への攻撃」と感じるんですね。
自分の論理がほころびそうになると、もう大変。
世界が壊れてしまうほどの恐怖を感じ、怒りを感じ、更に強い論理、鎧の強化に励むわけです。
そんな知的エリート、幾らでもいますよね。

 私の師匠、吉福伸逸さんは「弱い自我」の対語は「強い自我」ではないと言います。
つまり鎧は硬ければ硬いほど脆くなるんですね。
年をとってますます頑固になるのは、これですね。
自分の弱さを超えられていないと、孤独な老後になってしまう。
多いですね。
政治家にも多いですよ〜〜。
強固な鎧の症状としては「否認」、つまり違う意見や都合の悪い真実を認めない、そして怒り出す政治家。
だれでしょうね、、、

 さて、では「弱さ」を越えていくものは何でしょう。
それは「自我」や「アイデンティティー」を超えた向う側にある「本当の自己」に出会い、受容すること、、、
「自己の本性に出会うこと」
「魂そのものに直面し、受け入れること」、、、、
ああ、やっと本題の入り口まだたどり着いた〜〜ふ〜〜〜

 でも、もう力尽きました。(汗)
どうやったら「自己の本性」に向き合えるか。
少なくともそれは知的な難しい作業では辿りつけない。
言葉を駆使したり、暗示にかけても、だめ、、、
実は瞑想も本性に出会わせてはくれない。
瞑想はスピリチュアリティーにとって必要だけど、本性を覆い隠してしまう可能性もある。
むしろとっても楽しい、子どもたちがやるゲームのように、楽しむことによってしかかそこに辿りつけない。
言葉による操作ではなく、そこにいるだけで始まるゲームに身を委ねている内に、開放されていく。そういうものなんですね。

 吉福伸逸さんのワークショップは、結局「自己の本性」に直面することが一番大きなテーマだったと思いますが、とって自動的で、楽しいものでした。
吉福さんのワークに参加するようになって、どれほど自分が開放されたかわかりません。
そして私が美枝子さんとやっている「たましいの表現ワーク」。
そして友人のセラピスト向後善之さん、新海雅彦さんとやっている「たましいの航海術ワーク(体験的グループセラピー)」も吉福メソッドをベースにしています。
ぜひ皆さんも興味があったら参加してみてください。

大雑把になっちゃいましたが、参考になると嬉しいです。
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一つ目は、異なる意見に対する態度

知的な人は異なる意見を尊重するが、そうでない人は異なる意見を「自分への攻撃」とみなす

二つ目は、自分の知らないことに対する態度

知的な人は、わからないことがあることを喜び、怖れない。また、それについて学ぼうする。そうでない人はわからないことがあることを恥だと思う。その結果、それを隠し学ばない

三つ目は、人に物を教えるときの態度

知的な人は、教えるためには自分に「教える力」がなくてはいけない、と思っている。そうでない人は、教えるためには相手に「理解する力」がなくてはいけない、と思っている

四つ目は、知識に関する態度

知的な人は、損得抜きに知識を尊重する。そうでない人は、「何のために知識を得るのか」がはっきりしなければ知識を得ようとしない上、役に立たない知識を蔑視する

五つ目は、人を批判するときの態度

知的な人は、「相手の持っている知恵を高めるための批判」をする。そうでない人は、「相手の持っている知恵を貶めるための批判」をする。

知的である、というのは頭脳が明晰であるかどうか、という話ではなく、自分自身の弱さとどれだけ向き合えるか、という話であり、大変な忍耐と冷静さを必要とするものなのだ、と思う。
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by wtwong | 2016-01-20 08:32 | essay