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「自分には差別はない」と言う人を信じない!
なぜなら、どんな人間には必ず差別意識が潜んでいる。
そのことに無自覚な人間が隠れた差別を生む。

「自分は中立だ」という人も信じない!
なぜならそれも絶対ありえないから。
自分の偏向に無自覚な人間が中立を説く時、真実が曲げられる。

根深い差別意識や感情や幻想にとって都合の良い情報や理屈が選択されている。
その事にどれだけ自覚的になれるかが、その人の真実を育む。
(自戒を込めて、、、)

ウォン・ウィンツァン
2016/03/24
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よく言われるんですが「私もウォンさんの曲弾きたい〜」と、、
で、いつも「是非、弾いてください〜」と言います。
すると、だいたい帰ってくる答えは「でも、基礎がないし〜」
これって呪いの言葉ですよね。
「基礎からやらねばならない、、、」
どんなことでも、何かをやりたいと思うと必ずかかるブレーキ、呪いの言葉、、、
「ルノアールみたいな絵が描きたい〜」
「基礎からやらなくっちゃダメよ」
「ピアノが弾きたい〜」
「バイエルから始めたら、、、」
はっきり言えば、そんなもの関係ないです。
基礎なんてクソくらえです〜〜
あらゆる創造性の出発にはモチベーション、「やりたい」と言う衝動があります。
それにブレーキをかける沢山の呪いの言葉を、どれだけ排除できるかが、その人のクリエイティビティーが発揮されるかどうかが決まります。
「基礎がないから」
「才能がないから」
「時間がないから」
「技術がないから」
関係ないっすよ、、、

ウォン・ウィンツァン
2016/03/20
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<プロとアマチュアの違いとは>
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 古くて新しい議論に「プロとアマチュアの違いとは?」がありますよね。いろいろ言われるわけですが、結局、背負ってるか、背負ってないか、の違いじゃないかと思うんですよ。スピ的に言えば、カルマ(業)があるかないか、、、w ピアノの技術だけで言えば、私より上手なアマチュアは沢山います。バリバリ演奏できるのに、医者になったという人を知ってます。でも医者になるぐらいですから、背負ってないんでしょうね。

 先日、「光を世界へ」のビデオ収録を、私もカメラを持ちだして、やらせてもらったんですね。映像クリエイターの領域を侵犯しちゃったわけです。その時、鈴木重子さんが「プロデュースをしている時よりも楽しそう」と言われて、「それは背負ってるかどうかの違いがあるから、、」と答えたんですよ。

  私ってけっこう写真が上手なんですよ。(汗) 一時はプロになろうとしたぐらい、、、でも、やっぱり写真家のたましいは背負ってないんですね。それは様々なシチュエーションで、シャッターを押せるかどうか、と言うことが有ります。例えば東日本大震災の犠牲者に向けてレンズを向けられるかどうかというような場合もそうです。レンズを向けることで相手を傷つけるかもしれない、その事を十分わかっていながら、シャッターを押す人はやはりカルマを背負っていると言えるかもしれないですね。私はシャッターを押せなかった、、、

 何年か前、飢餓で死にそうな子供と、その子を狙うハゲタカを撮影したカメラマンがいました。その写真に対して世論はとても厳しかった。なぜ、シャッターを押す前にその子を助けなかったのかと、、、そのカメラマンは、シャッターを押した後その子を助けたと弁解したのですが、世論に負けて自害しちゃったんですね。かようにカルマを背負っているとは、どうしょうも無いことのように思うんですね。

 だから、プロなのかアマチュアなのかは、技術があるかないか、お金を貰えてるかどうか、主張があるかないかって、あまり関係が無い。どんなにお金にならなくても、技術がなくても、背負っているかどうかだけのような気がしますね。そして、背負っちゃっている人は、生き方も当然その通りの生き方ですよね。大変なことです、、、

ウォン・ウィンツァン
2016/03/19
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by wtwong | 2016-03-19 21:57 | essay
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 ピアノソロ活動をするようになって、人間関係は格段に増えました。昔とは比べ物にならないくらい友人、知人に恵まれ、おかげさまでとっても豊かな人生の後半を過ごしています。

 でも、いつも沢山の人に会っているのかと言えば、そうでもありません。やること、やりたい事いっぱいで、人に会っている余裕感は殆ど無いのです。なので交友を深めるためとか、パーティを楽しむためとか、遊ぶためとか、飲み会とか、まず無いですね。

 日本のあちこちにコンサートに行って、主催者や友人たちに会うのは、とっても楽しい。主催者との交流と現地の美味しいベジ食と温泉が、一番の楽しみです。コンサートもそうですが、私が人に会うときって、なにかクリエイティブなこと、何かのプロジェクトに、あるいは何かを一緒につくり上げる時に会うことがほとんどです。社会運動友達とか、セラピー関係とか、アート関係とかもクリエイティブな関係です。

 2月に入ってから「光を世界へ」の制作プロジェクトで、実にたくさんの人に会っています。5人のボーカリスト、湯川れい子さんのコーラスグループやVOJAの方たち、録音エンジニア、ドラマーやハーピストの方たち、そして映像クリエイター。制作の次の段階としてはジャケット制作に入るので、NGOの皆さんから現地の写真や動画を提供して頂く必要があり、彼らに会いに行くことになるのですが、とっても楽しみにしています。

 私が人に会う時って、結局なにか制作、創造している最中がほとんどです。なにかクリエイティブな時間を共有している時の関係は、本当に掛け替えがないビビッドな関係になります。創造的なイメージを共有し、その育みの中から新しいモノを探りだす。なんて楽しいことでしょう。そして、頭の何処かでは、そのアーティストと次にどんなクリエイティブなことが出来るか、なんとなくイメージが始まるのです。

 以前ある方が、「私は今人間関係を断舎離しているの」と仰っていた。どんな意味で言っているかはわからなかったけど、どこか自分も「人に会って時間を潰している暇ないな〜」と思うところもあったので、否定はできなかった。ちょっと前にフェイスブックのタイムラインに「幸福と健康は、良い人間関係によって育まれる」というTEDを紹介しました。「良い人間関係」とは、私にとっては何かしら「創造的な関係性」のことです。それと笑いの絶えることがない家族関係、かな、、、、


「人間関係を「断捨離」するススメ。昔の友だちに執着してはいけない6つのワケ 」
http://tabi-labo.com/125283/old-friends/
@tabilabo_newsさんから
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by wtwong | 2016-03-16 05:04 | essay
<311の意味>
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あれから5年が経ちました。
その年月の流れは、それぞれにとって何だったのでしょう?
「311」という言葉は、それぞれの特別の思いと、苦しみを含めて、決して終わることのない言葉です。
「311」は、あれから5年が経ち、そして永遠に続く、、、、

あの時、どうして良いかわからないまま、私はピアノに向かいました。
私が「サトワより祈りを込めて」と題し、Ustream配信で、ピアノのソロコンサートを始めたのは、3月16日でした。
はじめてのライブインターネット配信でしたが、息子のサポートのおかげで、なんとかライブ配信は始められました。
それは逃避だったのかもしれないし、修行だったのかもしれないし、人々と繋がっていくための縁としての音楽だったのかもしれないし、そして祈りだったのかもしれない。
「毎日、誰ともしれない人々に向かって演奏を続ける」ただそれだけが音楽家としての自分自身に課したことでした。
そしてそれは始められた。
毎日、見えないオーディエンスに向かって演奏し続けること、結局それは私自身をヒールすることであり、ヒールする向こうに見えてくる自分自身を確信することでもあったように、今は思います。

そしてそれが50回ほど続いたある時、それはとても自然に終了しました。
何人かの友人が私の体力や健康を気遣ってくれました。
確かにコンサートをすることは身体的にも精神的にも消耗することではあります。
でも、なんと50夜も続けることが出来た。
そして、それは心地よい消耗と、一つの確信のようなものがあって、私は演奏することを終えられました。
なにかとっても自然に終えられたんだと思う。
そしてエンディングには「これで毎晩のユースト配信を終えます」とさえ言わないぐらい自然な終わりだったように思う。

そして、あれから5年の歳月が経って「いのり」は終えられたのだろうか?
私にはとてもそのようには思えない。
福島は、、、
東北は、、、
辺野古は、、、
そして世界は、、、、
そして、それぞれの家族は、、、
私の魂の奥底では、今でも「いのり」は続いているのです。
そして、またいつでも、どのような形かわからないけど、誰ともしれない聴衆に向かって、ピアノの前に向かいたい。
「毎日、この世界の命たちに向かって、演奏し続ける」それだけが私がこの世に生を受けた意味なのかもしれない、、、
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by wtwong | 2016-03-11 03:49
「テンポ」というのは、私にとって「手がかり」なんだよね。
時間というキャンバスに、音楽という色彩を注ぎこみ、フォルムを描くには、キャンバスが見えていないと出来ないよ。
テンポは、その時間のキャンバスを視覚化するための、手がかりなんだ。
だから楽譜に「テンポ・ルバート」って書かれてあると、メチャ困惑するんだよね。
どうやって弾いていいのかまったく解らなくなるんだ。

よく歌の曲で、イントロなんかルバートになっていることがあるけど、私にはまったく弾けない。
歌の人がルバートで歌っている時、まったくアプローチが下手糞になる。
歌の人にホント、申し訳なくって、、、
それでもアゴーギクは、流石に最近、やれるようになった。
テンポが遅くなったり早くなったりするのは、まだインテンポ、つまりテンポの枠内だから、、、
でもルバートは、んん〜〜

「フリージャズや、現代音楽なんかもテンポがないじゃないか。なのに演奏してるじゃん」って指摘されるかもしれないけど、あれらの音楽は、まったく別のテンポ感覚があるんだよね。
BPM(一分間に何拍)という意味でのテンポではなく、「テンポ感覚」
これはこれで深い世界で、演奏を聞けばその感覚を掴んでいる人と掴んでいない人は、一目、いや、一聴瞭然!

武満徹なんか、独自の時間感覚を持っていたし、求めていたと思うけど、この超越的な時間感覚は、どうしょうもなく楽譜化出来ない。
武満の音楽は音色や響きだけでなく、何よりも時間の流れの感覚こそが核心にある。
彼が書いた美しい楽譜は、彼の求めている時間の流れのおおよそのタイミングを伝えるための便宜的なものにすぎないし、書き込めるものでもないことは武満自身が一番良く知っていたと思う。
きっと歯痒い思い、苦悩したと思うな〜

最近一番気に入っている武満の曲!
ヘッドホーンで聞いて欲しい!

武満 徹: 夢窓 (1985) Dream / Window オリヴァー・ナッセン
https://youtu.be/QZCBI0QZyZc
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by wtwong | 2016-03-08 08:52
<人を「ただそのようにあるもの」として見る>
以前は、人間は善きものなのだ、とか、人間はひどい存在だ、とか性善説と性悪説に揺らいで来たわけですが、それって所詮人間の価値基準にしか過ぎないですね。観念的に善だとか悪だとか言っているに過ぎない。存在そのものに悪も善もない。「ただそのようにある」だけなんだと思う。だから「ただそのようにある」人間をどれだけ深く、どれだけ多層的、多面的に理解できるか、そのことが大事なんだと思う。吉福伸逸というセラピストに邂逅して人間というものが見えてきた。人間嫌いだった私が、今は好きになっているんだから、不思議なものだよね。知れば知るほど人間が好きになる。「知る」と言うことは「好きになる」と同じ意味になることって、このことだと思うな。
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by wtwong | 2016-03-05 13:45
なにか遣りたいこと、作りたいことがイメージ出来て、モチベーションが高まって、やり始めて、ある程度それが形になることがわかってくると、とたんにモチベーションが下がってきて、やりっ放しになって終わっちゃうことって、実は結構たくさんあるんだよな〜。どんなにクリエイティブで、素晴らしいことでも、コンテンツ(内容)という形になって、はじめて人に伝わって、認められたり、収益になったりするわけだけど、その最後のフィニッシュというか、形にする作業というのは、実はとっても大変。と言うか、モチベーションがとたんに下がってしまうんだよな〜。つまりクリエイティブなことをやっているその瞬間瞬間に「自分は生きてる感」を満喫するわけだけど、形になることが解ってしまった途端エネルギーが出なくなっちゃうんだよな〜〜 この性癖を正さないと、とは思うんだけど、、、
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by wtwong | 2016-03-05 13:44