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<表現と、表現者の間(あわい)にあるもの>
メリル・ストリープのスピーチと、アメージング・グレース異論から
ブログ:ウォン・ウィンツァン
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 表現者と、表現されたものとの間に、一体何があるのだろう?
世間的にはその2つは一致したものとして受け止められているようだ。
表現、作品=表現者、芸術家
果たしてそうだろうか?

 一世を風靡した植木等や渥美清は、映画の役柄イメージが本人のパーソナリティーとして認知され、其のことで彼らが苦しんだことは度々話される。
大衆の間に彼らのイメージが定着し、他の映画に出演できない。
敬虔な仏教徒であった植木等は、世間で無責任な男として弾劾された。

 知性派の女優であるメリル・ストリープがスピーチで、ドナルド・トランプの排外主義に対して、強烈に批判した。
FBでは其の内容を皆がシェアしているので、ご存じの方も多いだろう。
私もシェアした一人だが。

 すると、ストリープがヒラリー・クリントンと懇意であること、また彼女が1%を与する立場にいることを指摘する人が出てきた。
スピーチの正義の内容には、何らかの意図が隠されてるやもしれない、、、
私は、スピーチの内容を相対化する意味でそれもシェアした。
それに対しある方から以下のコメントを頂いた。
「誰が言ったか、というのではなく、何を語ったか、だと思います。」
すなわち、表現と表現者を切り離して考えてはどうか?と、、、

 何故か同時期に「アメージング・グレース」の作者の逸話を私はシェアした。
皆さんも御存知「アメージング・グレース」は奴隷船の船長が嵐から命拾いをし、恩寵の感受し、感動的な曲として世に出た。
今では最もスピリチュアルな曲として、多くの人に歌われている。
私も演奏している。

 それに対して異論を唱える方がいた。
彼は「(3人に1人は死んでしまうような残酷な奴隷船で)暴利を貪っていたイングランド男が、海難事故で改心して信仰に目覚めたと言いながら、それからさらに6年も奴隷貿易船の船長をしていて、6年経って牧師になって、こんな歌詞を書いたことが美談ですか? 」と書いた。
私も知らなかったのでショックを受け、シェアした。

 それに対しても様々ご意見を頂いた。
「6年はかかったかもしれないけど、最終的には悔恨し、奴隷船の改善や廃止に努めた」
「神に告白して祈れば罪はチャラ。個人的な話はそれでもいいけど、ビューティフルストーリーに仕立て上げちゃあダメでしょう」と言う意見もあった。
ここでは船長を告発したエッセーも、擁護するコメントも、表現者と表現は、概ね一致したものとして語られている。

 ピカソのことが思い起こされる。
彼の作品を評価する人は、例えばピースフルな鳩の絵や青の時代の絵、ゲルニカを見て、彼の人間的な深さ、たましいの自由さを称える。
しかしピカソの人生と、彼に関わった6人の女性たちの末路を知る人は、彼の反社会的な人格を到底許せなくなる。
(一人フランソワーズ・ジローだけが生還したが、、、)

 さて、表現(作品)と表現者(アーティスト)の間(あわい)にあるものは、一体なんなんだろう?
私も長い間、作品とアーティストの間で困惑してきた一人だ。
多分、その間(あわい)にあるものは、本人も含め、誰にもわからない。
完全に一致するものでも、完全に離反するものでもない。
その間の、しかも様々なレイヤー、様々心的次元で、測られる。
パーソナルな次元、ソーシャルな次元、リレーショナルな次元、スピリチャルな次元、、、

また受け取る側のそれぞれの心性に照らし合わされて、その都度、流動的に測られるものなのかもしれない。
つまりは「わからない」、、、
本人にさえ「わからない」モノなのなのだ。

 それでも表現者と表現の間にあるものを、思い馳せる喜びは、鑑賞者である私たちの、掛け替えのない楽しみでもあるのだけど、、、

 このピカソの自画像は、多分本人「そのもの」ではないかと、私には思われる。
死ぬちょうど一年前に描かれた「若い画家の肖像」から私が受け取るものは「虚無」と「孤独」だ。

ウォン・ウィンツァン
2017-01-12

このブログに対して、内海さんより、大切なご指摘がありましたので、ここに掲載させていただきます。

内海 信彦 さん
 「ウォン・ウィンツァンさんのブログで、アメイジンググレイスに関する私の投稿について書いていただいております。ウォンさんに直接お伝えしたことを、ここで書いてみたいと思います。ウォンさんの問題意識をこれからも大切にしていきます。ウォンさん、どうもありがとうございました。

 表現者と表現の乖離という点では、作家と作品に多々ある矛盾であり、むしろ意図的に挑発的に行われるのが文学性の問題であるかと思います。ただし奴隷貿易船の船長ニュートンの場合、牧師になったことが奴隷貿易の犯罪性からの悔恨だったかどうか、はなはだ疑問だということです。音楽それ自体の自律性は存在しますし、作家と作品の乖離や矛盾があるからといって、すべて作品が否定されることはできないのです。

 私が批判的に言うのは歴史性の欠如によって音楽や美術が超越的に甘く考えられていることに抵抗があることです。アメイジンググレイスという曲が好きだという方がいらしても、それ自体は個人の問題です。ただし好きだというだけでは見えてこない歴史を、特殊日本的な態度として曖昧にしたまま過去を水に流してしまおうとする一種の歴史修正主義が、音楽や美術の世界にもありますね。戦争画や軍歌が不問に付されて免責されたのは、表現の問題とは異なるのではないかと思います。

 ウォンさんの提起は心から受け止めて、継続して書いたり考えていきたいと思います。ウォンさんとの対談でも出来たら、さらに生産的に発展させられるように思います。ありがとうございました。」

内海さんのご意見は「作品それ自体の自律性は存在します」が、では「作家の意図や悪意も含め、一切免責されるものか」という疑問は残ると、とても重要なご指摘だと思います。
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by wtwong | 2017-01-12 04:58 | essay
<親父の自立心>ウォン・ウィンツァン
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 自立して生きるって、どういう事なんだろう?
97歳の親父は青年時代のある時に、自立して生きることを選択した。
彼の自立心は、人に迷惑をかけない、一人で生きること、そう決めた時から始まった。
親父の生涯は、ものの見事に自立した、迷惑というものを人にかけたことがない、立派な生き方だった。

 しかし意固地なほどに強い自立心は、融通がきかないものでもあった。
そうしないと生きていけない、防衛的な背景があったのかもしれない。
自立を決意したその背景には、見放されたことへの怒りや、悲しみと、人間不信があったのかもしれない。
「よし、わかった。俺を見放すなら、それでいい。もう面倒など見なくていい。俺は自立する。そして誰も信じない。」
そんな叫びが聞こえてくる。
時代背景や家庭環境もあったと思う。
特に戰爭を体験した、あの世代の老人たちによく見かける傾向でもあるだろう。

 しかし、人はいつか年老いて、あるいは病気や怪我などで、人に世話にならないと生きていけなくなる。
必ずその時期は来る。
いつか彼らの自立心を手放さねばならない。
しかしどうやって?

 20代の頃から、人に甘えるということを体験したことのない97歳の老人が、甘えることを自分を許さなかった人間が、どうやってそれを受け入れるのだろう。
甘えたり、面倒を見てもらうのは、迷惑をかける事なのだ。
そして自尊心が傷つくことでもあるのだ。
相手がどんなに負担に思わなくても、彼にとっては迷惑をかける事であり、プライドが許さないことなのだ。

 しかし面倒を見てもらうこと、迷惑をかけることを、いつかは受け入れねばならない。
人は必ず老いる。
面倒を見てもらわないと、生きていけないのだ。
プライドを捨てねばならないのだ。
否認や、駆け引きや、怒りや、そして鬱になりながら、いつか面倒を見てもらうことを受け入れるだろう。
私達が出来ることは、彼のプロセスを待つことだ。
彼の今までの生き様を尊重することだ。

 鎧は脱がそうとすれば、むしろ意固地になる。
私達が出来るのは、イソップ物語の「風と太陽」の話じゃないけど、温かい光を当てて、待っていれば良いのだと思う。
いや、鎧が脱げないのなら、脱ぐつもりがないのであれば、それでもいいではないか。
彼はもう、否認しながらも、受け入れているし、心の底では感謝もしている。
そんな親父を可愛いと思うのは息子からの不遜な上から目線だけど、www

 さて、かく言う息子の自立の道は、父親のそれと比較して、どのようなものであったろう。
いや、自立なんかしてないんじゃないの?
今はプライドなんて無いので、人に迷惑かけながら、思い切り甘えたい。
甘えたい〜〜
甘えさせてくれ〜〜
冗談じゃないわよ、って言われたら、どうしょ〜〜(汗)
いや、もう甘えているだろうって、、、(冷汗)

思い切り甘えたいピアニストより、、、
2017-01-01
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