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<即興演奏についてーマイルスに学んだこと>
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 私は19歳から、ジャズピアニストとして演奏活動を開始しています。
あの頃はチックコリヤやキースジャレット、ハービーハンコックなどを追い求めていました。
自分はアソコまでたどり着けるという不遜な自惚れがあったので、憧れという言葉は使ってなかったけど、今思うと憧れていたんだな〜www

 何をお話したかったかというと、私にとって「即興」はデフォルトとしてあったのです。
ジャズは即興こそがその醍醐味です。
なので「どうやって即興を学べばいいのか?」という質問にいつもうまく答えられないのです。
先日、経王寺で、同じピアニストの上畑正和さんと即興デュオをやりました。
彼とは、これまでもデュオを何度もやっていることもあり、息もピッタリ。
聴いてくださった方たちから、まるで楽譜があるかのようだと感想をいただきました。
私は茶化して、テレパシーだよ、なんて言っていますが、、、

 でも、私も「即興とは何か?」と思い悩んだことがあります。
「即興とは、一つの出来事に対し、どのように反応するのか?」と言って良いかと思います。
まず最初に「一つの出来事」があり、それに対し「次の出来事」とどのような関係性があるのか?と言うことです。
音と音の間にある関係性とは何か?
それが全くわからなくなってしまったのです。

 それまで手癖、足癖のように音を出していた訳です。
即興演奏は慣用句を多用することでも、成り立ちます。
沢山、或いは少し、フレーズのストックがあって、それを順番に出していっても即興演奏と言うことも出来る。
でも、ある時、それがどうしょうもなく嫌になっちゃった。
と言うか、自分が嘘臭くてしょうがなくなったのです。

 即興ってなんだろう?
思い悩みましたね〜。
そんな時、出会うべき音楽に出会ったのです。
青天の霹靂というか、そのぐらい衝撃でした。
それはMiles DavisのBitches BrewというLPのなかのMiles Runs The Voodoo Downという曲でのマイルスの即興演奏です。

https://youtu.be/Wsw8fERaGrY

 即興は、或いは音楽は、音と音との関係性です。
マイルスのフレーズを辿っていくと、その音と音との関係性の密度というか濃度というか、飛躍性というか、有機性というか、私には衝撃的に解った、というかドカ〜〜ンと受け取ったというか、、、
目からウロコ、棚からぼたもち(違うか、、)、開眼しちゃったのです。
彼の即興には、フレーズからフレーズを辿っていくその奥底に、濃密な、有機的な「物語性」があるのです。
「物語性」です。

 即興とは、ひとつの語り、から、もう一つの「秘められた語り」を、紡ぎ出すこと、あるいは、探し当てることが、ようやく判ってきたのです。
グループで演奏している時はグループと、一人で演奏している時は、自分自身に、語り続けることなんだとわかったのです。
音と音の間にある、秘められた有機性を見出すこと、それが即興演奏といえると思います。

 最近、坂本龍一さんの2009年ごろのコンサート録音のピアノ即興を聴いていました。
坂本さんは、押しも押されぬ世界的音楽家です。
ですから、勿論、今までも高く評価していました。
でも、ピアノ即興を聴いて「この人はすごいな」と思いました。
非常に真摯な演奏をされていると思いました。

 現代の音楽は、ある意味、あらゆる「物語性」は使い古されて、もうどこにも新しい地平がない感じです。
フロンティアが成立しないのが現代です。
そんな中にあって、坂本さんがピアノに向き合う時、その事と熾烈に戦っていることが、私には手に取るように解りました。
翻って、自分の演奏が、ともすれば安直に陥っていると、ちょっと恥ずかしく思ったりしました。

 嘗てマイルスの「物語」に衝撃を受けたときのように、もう一度、自分自身に「即興とは何か?」を問い詰めてみたくなりました。
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by wtwong | 2017-03-24 11:12 | essay
<春分の日、朝日カルチャーセンターでのトーク&コンサート>
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 今日、春分の日は、新宿住友ビル10階にある、朝日カルチャーセンターでトーク&コンサートでした。
アサカルは震災直後の横浜教室から、今回で6回目になります。
教室いっぱいの受講生たちには小学生から80歳以上のご高齢の方まで、70名ぐらいの方たちが受講してくださいました。
講演では、主に映像と音楽制作のお話をさせていただきました。
また自分のナショナル・アイデンティティーに関するお話と「サトワの夢」の演奏。
また軽い初歩的な瞑想導入から即興演奏をさせていただきました。
あっという間の2時間、充実した内容だったと思います。

 それと瞑想に関するお話で、「皆さんは感動というものを体験したことが有りますか?」という質問に、殆どの人が挙手してくれました。
「感動こそが、もっともスピリチャルで、超越的な体験なのです。
瞑想は、感動の源、つまりは魂にたどり着くためのノウハウです。
魂から発する音楽は、聴く人の感動の源、つまりは聴く人の魂に触れることが出来る、というのが私のビリーフです。」というようなお話をさせていただきました。

 とっても驚いた講演後のエピソード。
受講してくださったご家族がいて、私の即興のCD「ビハインド・ザ・フォーレスト」の中の「雲と影絵」を、11歳の女の子が、自分で耳コピーして演奏してくださいました。
即興曲ですから、楽譜に記譜できないようなタイミングがいっぱいです。
和音的にも結構高度なものが入っています。
それなのにシッカリコピーして、小さな子供の手で演奏してくれました。
感動でした。
どんなに才能があったとしても、相当努力しないと演奏できない曲です。
自分の音楽や演奏が、11歳の小さな魂に届いている。
いい加減な気持ちで音楽できないな〜と自戒するひと時でも有りました。
彼女の将来が楽しみ。
ぜひ存分に音楽を楽しんでほしいものです。
彼女の演奏する姿はとっても印象度が高いものでした。

2017-03-20
ウォン・ウィンツァン
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<霊的な感受性について>
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 霊的な感受性は、人間なら、殆どの人が持っている。
そんな訳ない、と思うだろうか。
神秘体験や霊的な体験をしている時、大脳辺縁系が活性化することが知られている。
つまり大脳辺縁系を持っている人なら、霊的感受性があるはずだ、というのは根拠になるだろうか。
我が師匠、吉福伸逸氏は「霊的体験をしないということは、その人に何らかの抑圧があると考えていいと思う」と断言していた。
不可解なものへの恐れや不安、あるいは科学合理主義に拘泥している人は、霊的体験に対してブロックがあるのだろうか。

 人間には得手不得手があるのだから、霊的な感受性が強い人もいれば弱い人もいる。
足に障害がなければ、どんな人も走れるけど、100mを10秒で走れる人は殆どいない。
霊的な感受性も同じようなことが言える。

 ただ、100mを10秒で走れる人が、人格的に良い人かどうかは別の問題であるように、霊的感受性が高い人が、霊格が高いなんてまずありえない。
ココらへんが大きな誤解を呼んでいる。
むしろ霊的感受性の高さが仇になって、霊的エリート主義というか、選民意識が強く、とんでもないグルやヒーラーになったりしているのを、巷でよく見聞きすることだ。
私のまわりにはクンダリニーが起きちゃった女性たちや、スプーンをグニャグニャに曲げてしまうサイキック女子が、沢山いる。
何故か男子が少ないけど、、、
彼らはみな普通の人達だ。

 100mを20秒で走る人が、日々の修練によって19秒に挑戦する姿は美しい。
霊的感受性や霊能力をアップさせるために、それなりの努力をすることも、それはそれで良いとは思う。
日常生活や人間関係に支障をきたさないのなら、と言う条件はあるが、、、
ただ、それが霊格のアップのために行っているとするなら、それはお門違いだ。
霊格と霊能力は、はっきり全く別のものだ。

 霊格とはなんだろう?
私もよく解らない。
この人は霊格が高いな〜と感じる人に時々出会う。
感じるということと、解かるということは別のことだ。
その方の霊格の根拠を言葉にすることは出来ない。

 ただ、絶対言えることは、霊格の問題の前に、人格の問題があるということ。
人格の成長を蔑ろにして、霊格の成長は、まず無い。
人格的問題をクリアーできてない人が、あたかも霊性が高いかのような振る舞いは、滑稽だ。
とは言え「人格とはどういうこと?」となると、また違う議論が必要になる。

 さて、幼い頃から子供の才能を見出した親が、その子の成長のために環境を整えてあげようとするのは自然なことだ。
運動能力の優れた子は、環境や適切な指導者によって、100mを10秒で走れる子になるかもしれない。

 では霊的感受性が強い子に関してはどうだろう?
霊的感受性は年令に関係なく、突然開花することがある。
運動能力への社会や世間の理解というものはあるが、霊的なものの社会的理解は、日本には殆ど無い。
子どもの頃に神秘体験をした子どもが、その後、困難な人生を歩まなくてはならなかったという話は、よく聞く。
両親にも社会にも、そのような子ども達を受け入れられるような能力も知識も、今の日本には用意されていない。
沖縄にはノロの伝統があるけど、霊的伝統の神秘主義には、語弊を恐れず言えば、迷妄が濃厚にある。
このことはまた別に議論したい。

 私たちはダライ・ラマやクリシナムルティのような、霊的な英才教育によって成就した指導者を知っている。
しかしそれは、本当に稀なこと、稀有なことなのだ。
たとえ親に霊性への理解があっても、その子が現実社会に住む以上、かなり難しい。
少なくともその子を霊的指導者に育てようとなどはしないほうが良い。
自分の子供を江原啓之みたいな霊能力者にしたいと思う親もいるかもしれないけど、、、、

 運動能力のある子どもをアスリートに育てようとするとしても、その子の人格的な成長も蔑ろには出来ない。
100mを10秒で走れたとしても、それはそれでしかない。
霊的感受性も、それでしかない。
100mを10秒で走ることが出来ることは、その人の存在力を高めてくるように、霊的感受性は、その人の人生を豊かにするだろう。
しかし、それ以上でもそれ以下でもない。
彼の、そして私達の人生の殆どは、社会で生きていくことなのだ。

 子供の霊能力を大事にすることは必要だけど、それを過剰に子供に求めるのは、その子にとって難しい状況にさせてしまう。
子どもは親が求めていることを察知し、無意識にそれに答えようとする存在だ。
親から多くの愛を獲得するために、そのように振る舞う存在なのだ。
子どもの親への忖度能力は、子どもが生き延びるために必要なことなのだけど、、、
そのことによって子供の能力が高まることもあるとは思う。
でも、親がターゲットになっているので、自然な能力の発育にはなかなかなりにくい。
それは霊能力だけに限らない。
すべての能力の成長を促す場合によく起こることだ。
殆どの場合、その子の可能性とは違う方向の能力を親は求めている。

 自然な成長、と言う言葉は、言うのは簡単だけど、やはりとっても難しい。
何れにせよ、その子の成長を見守りながら、過剰ではなく、また、過少でもなく、その子にとって、最も適した、健全な環境を用意することは、至難の業だと思うが、親として、子どもにやってあげたいことだとは思う。

 さて、どんな人も必ず霊的な感受性を持ち合わせている、と書いた。
そのことを最も顕著に体験することになるのが、死というものが身近になったときだ。
死に近づくと、自我が希薄になって、ブロックが取れるのだろうか。
嫌がおうにも霊性が濃密になるのが、死という体験だ。
霊的なことに無知でいると、死に直面して狼狽えることになる。

 35年前、私の母は膵臓がんで他界した。
死の直前、さまざまな霊的体験を繰り返していた。
医者は瀕死の患者がモルヒネなどで、そういう体験するのだと言っていた。
でも、そうではなかった。
あの時、ちゃんと対応できなかったことが残念でならない。
その後、妹や義父を看取ったが、彼らの霊的体験に寄り添えたのは、本当に良かった。
彼らから掛け替えのないプレゼントを与えてもらえた。
実りの深い終末であり、別れだったと思う。
己の終末を、実り多い、豊かな最後にするために、多くの人が霊的な感受性について、健全な知識を持ってくれることを、心から望んでいる。

 人間の終末の霊的体験について、数多い看取りの体験から書かれた、示唆に富んだ文章をここに紹介したい。
是非、読んでほしい本だ。

大切な人の看取り方 デニー・コープ https://www.amazon.co.jp/dp/4864100810/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_BF7YybSVWB8R6 @amazonJPさんから
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<アッキーに思うこと>
「良い子症候群」という造語があります。良い子であることによって愛情を受ける。親から承認されるために良い子になりすぎて、自分自身を失ってしまった子供のままの大人の話です。そんな人は、誰にでも良い人であろうとする。親の言いつけを守りすぎた其の娘は、自分の考え方や心情は希薄で、アイデンティティーも揺らぎやすい。総理大臣夫人ともなれば、彼女に近づきたい、利用したいという人はいくらでもいる。良い子症候群は利用されることによって、永遠に満たされない承認願望を底なし求め続ける。総理夫人というステイタスも承認願望を充分満たさない。もっともっと良い事をして認められたい。八方に良い子であり続けることは、とても難しい。ましてや政治的背景が複雑に入り組んでいる世界に生きていればなおさら。いつか不具合が発生。今まで彼女を利用している人たちからもバッシングが始まる。本人はなぜバッシングされるのか解らない。良いことをやっているのに、なぜ?、、、そして転落が始まる。自分を保つために否認が始まる。なぜこんなに注目されるのか、私にはわからない。だから否認、無視。そうしないと自分が保てない。さて悪いのは彼女だけじゃない。良い子と、良い子を求め、利用する側との共犯関係だから、、、、
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 人は、人から承認されないと生きていけない。この社会は相互承認関係だともいえます。関係性だけでなく、お金や地位、学歴、役職、などなど、自分のアイデンティティーを支えるものならなんでも身につけようとします。でも承認されるためになら、なんでも良いとうわけではありません。その人がその人らしい生き方に対し、周りからの温かい承認こそが、その人を支えるのです。

 私は音楽家ですが、どんな音楽でも認められればよいというわけじゃありません。私が私らしい音楽を提示し、それを受け止めてもらえることが、私への社会からの承認なんです。私らしい音楽が社会の中で少数の人にしか承認されなくとも、です。
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パパさんのホーム生活
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 私達家族は、父親の変容ぶりに、嬉しい驚きでいっぱいだ。「もう、悲しいこと、悪いことは思い出したくない。楽しい思い出、楽しい人との出会い。ここは天国です。良くここを見つけてくれました。」今までネガティブなことしか言わない人が、そんなことを言うようになった。人はどんなに年をとっても変わることが出来る。

 昨年11月下旬に転倒大腿骨骨折をし、二ヶ月以上入院をしていたけど、退院を契機に老人ホームに移り住んだ。父と私で話し合って決めたことだった。退院に近づくにつれ不安でいっぱいになっていた。あれから一ヶ月以上経った。揺らぎもいろいろあったけど、今はホームのスタッフやほかの入居者とも仲良くなって。毎日が楽しそうだ。退職して以来、人と会うことを嫌がっていた父が、スタッフや同居人とお話するのが楽しそうだ。

 病院にいた頃は「生きている意味はありません。早く死なしてください。」と老人鬱状態が続いた。なんとか励ましながら、リハビリを続けていたけど、病院に馴染んだ頃、退院を迫られた。ホームに入居してからも不安定な毎日だったけど、今は健康を取り戻し、生き甲斐すら見出している。起きたり、寝たりすること、お食事や、お三時、お食事の前の体操や、週二回の入浴。ちょっとしたアクティビティ、そんな些細な事が喜びとして感じられているようだ。

 父はやはりラッキーだ。ホームに入居できたんだから。年金のない父の貯金だと、あと2年ぐらいしか居られない。まあ、其の時になったら家族で考えよう。彼の人生の殆どは仕事だった。今はすべてを手放し、ホームに流れる瞑想的な時間の中で、Rest of Lifeを楽しんで欲しい。私達家族は病院に入院して以来、日参してきたけど、ホームも家の近くなので、行かないわけにはいかなさそうだ、、、、ふ〜む、、、
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by wtwong | 2017-03-08 03:06 | essay
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今日一日、ワンデーワークショップでした。
Primal Music Meditation(PMM)は昨年から始めた、主に音楽家を対象にした、総合的なワークショップです。
今回で三回目、全員リピーターでした。

はじめは軽いヨガ体操から、そのままタッチングに移行。
タッチングとは触れ合うこと、、、
欧米人と違って、私たちは日常で、お互いに触れ合うことは、習慣的にありませんね。
でも、タッチング・コミュニケーションはとっても大事。
それこそ原初的な情動に触れ合うことが出来ます。
タッチングによって、幸福物質と言われるオキシトシンが分泌されることも知られるようになりました。

つぎに、皆さんに「音楽の至高体験」の経験談をシェアしてもらいました。
音楽に関わるもの、演奏者も、聴衆も、至高体験を経験していいる人は、本当に多くいます。
その体験は、本当に掛け替えがなく、それは命を揺さぶり、生きることの意欲を取り戻します。

その後ちょっとしたサウンドワーク、、、
それぞれの持ち寄った楽器、そして声で即興的なアンサンブルです。
午前中ということもあって、まだ、ちょっと、硬かったかな、、、

お昼ごはんは、主催の大島厳くんの奥様のベジタリアン手料理!
ふっくらとして玄米ご飯に、ベジタリアン・ラタテューユ!
八朔やパクチーのサラダ!!
そして、フィリピン伝統のスイーツ!
美味しかった〜

さて、午後イチのワークは「見放さないで〜」のワーク!!
これはフロイトの弟子だったメラニー・クラインの対象関係論をベースにしたワーク。
こんな風に言うと大したものに感じるけど、じつにプリミティブ、シンプルなワークです。
でも、その効果はとっても大きい!
参加者全員が、無意識の根源に覆い隠されていた、母親の愛情の希求に目覚めます。

そして、そのワークはそのまま「別れ」のワークにつながっていきます。
母親の懐に抱かれた魂も、いつか母体から旅立たねばなりません。

そして、最後はまた即興アンサンブル・セッション!!!
午前中のセッションとは打って変わって、美しい音の波が、スタジオ全体を包みます。
みなワークで開放されたのか、一つ一つ、音を紡いでいます。
カンテレや、ライヤー、三味線、カリンバ、ベル達、エスラージ、フルート、そして歌声、、、、
ああ、なんて美しい瞬間だったことでしょう。
この瞬間のためにワークがあった。
今回も参加、ありがとうございました。
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by wtwong | 2017-03-05 21:48