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<幸福の条件>
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パパさん語録に「三つの幸福の条件」と言うのがある。
「健康第一、少なくてもいい必要十分なお金、汚くても我が家」
確かに幸福になるために、このような具体的な条件は必要かもしれない。
でも、パパさんが、この「三つの幸福の条件」を唱える時、あまり幸福そうには見えなかった。
つまり、不幸なとき、その条件が満たされていることを確認して、自分は幸福なはずだと言い聞かせているのだった。

しかし晩年になるに連れ、このパパさん語録は影を潜めていく。
つまり家族との関係性を回復し、信頼し、昔のルサンチマンや怒りも解消され、家族以外との関係性も増えていくに従って、どんどん幸福になっていったのだと思う。。
最後の数ヶ月は老人施設で介護士たちや同居人たちや、そして私達家族も毎日通ってきてくれる。
今年の4月頃は「ここは天国です。長生きしたかったらここに住めばいい」とまで言っていた。
そして5月には天国に旅立ったけど、最期は安らかで、本当に天国に行ったんだと、残された家族たち誰もがそう感じた。

さて、幸福の条件とはなんだろう?
健康やお金や家も大切だけど、結局心の健康の問題なんだと思う。
「心の健康」すなわち「健全な自我の確立」が一番大事なことなんじゃないだろうか。
どんなに具体的な良い条件を揃えても、自分自身の問題に向かわない限り、幸福になんかになれないんだよ。
幸福な人は友人が多いと言うけど、自分自身の問題をクリヤーしない限り、人間関係が良くなるわけもない。
無意識領域に巣食っている、歪んだ魂を持ったまま、ひとは幸福にはなれない。
「自分に直面すること」それこそが幸福への一番の近道だと、私は思うな、、、
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<音楽を教えるということ>
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  「音楽を教える」ことってなんだろうな〜?と、ここ数年、考えることが多い。
自分が獲得したものを、なんとか伝えたいと思い始めた。
多分それって年齢的なものなんだろうと思うね。
歳をとると、本能的に何かを次世代に伝えたいと思うものなのかもしれない。
とは言え、まとまって考えているわけじゃないし、ノウハウがあるわけでもない。

 それに、その「獲得したもの」とか「伝えたいもの」ってなんなの?って話だけど、あまりに茫漠としていてる。
所謂、音楽教育、演奏の優れたカリキュラムなど、いくらでもあるし、それを私は教えたいわけじゃない。
優れた先生は、きっと沢山いる。

 昨年ぐらいから「Primal Music Meditation」というワークショップを始めた。
「音の存在力」と言うものを伝えたい。
音楽が聴く人の魂に伝わるということがどういうことなのか、何とか伝えたいと思った。
でも、どうなんだろう?
考え方と、開発したメソッドを伝えることって出来るだろうか?
その考え方も抽象度が高く、伝わりにくい。
メソッドはあまりにシンプルすぎて、自分でも呆れてしまう。
それに、音楽のエッセンスを自分のものにして、音として表現出来るようになるには、もうその人その人の魂に賭けるしかない。
まあ、それで良いんだよね。
それしか私には出来ないし、、、

 私の音楽スタイルを自分のものにし得たのは、今のところ息子かもしれない。
勿論、本人は弟子になったつもりもないし、私も先生になったつもりはない。
彼に何かを直接的に教えるような時間は、殆どなかったと思う。
でも、何よりも私という音楽家の環境にいた。
居ざるを得なかった、、、
音楽家のライフスタイルのど真ん中に居合わせてしまったのだ。

 彼は私が30代後半にようやく獲得した音楽性を、高校生の後半には表現できていた。
すごい話だと思うかもしれないけど、環境というもののチカラなのだ。
子どもが母親の話し方を聞いて言葉を覚えるように、彼は私の音楽環境の中で、それを母語として獲得したのだ。

 そして20代前半にリリースしたCDは、彼に言わせると、私の音楽の再現なのだという。
彼は自分の音楽ではなく、私の音楽を実現したのだ。
なるほどと思う。
「守破離」と言う言葉がある。
それは、日本での茶道、武道、芸術等における師弟関係のあり方の一つを表している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/守破離
この古典的なメジャーを当てはめるなら、彼は「守」を実現したことになる。
そして、いま彼は「守破離」の「破」の段階にいるように見える。

 インド音楽などの師弟関係は、もうそれこそグルと出家の関係だ。
グルの日常のアレコレの面倒を見ながら、グルの演奏を見よう見まねで、自分のものにしていく。
つまり日常的に一緒に居て、芸を盗むのだ。
そんな師弟関係は、もうないよね。

 私には音楽的環境はなかった。
でも音楽を教えてくれた人はいた。
まずピアノの先生。
小学生に入った頃、情緒教育でピアノ教室に通わされた。
嫌で嫌でしょうがなかった。
先生もそんな子供に教えたいとは思わないだろうね。
数年で止めてしまった。

 ある時、再びピアノを習いたいと思った。
高校年の頃だったと思う。
その先生の所に私は出向いていった。
その時、その先生からひどく冷たいあしらいを受けた。
教える気がないなら、そう言えばよかったのに、、、、
その後、私は独学でピアノの練習を始めた。

 音楽活動を始めたある時、その先生にご縁のある方にお会いする機会があった。
そして「先生があなたに謝罪したいと仰ってたのよ」と伝えてくれた。
その先生が他界した後の話だった。

 私はピアノの先生からひどい扱いをされながら、でも止めなかった。
それは、根性とかじゃなくって、やはり運命的のものだったのだろう。
私は今、その先生に感謝している。
彼女は私の最初の音楽の先生なのだから、、、

 今日までに、私が音楽を続けるプロセスで、いったいどれだけネガティブなエピソードがあることだろう。
あまりに多くて、思い出せない、www
そうそう、ある時、同級生に「まだ音楽なんかやってるの?」と言われたこともある。www

 それでも私には希望が見えていた。
音楽のビジョンを見ていたんだ。
だから続けられたのだと思う。
でも、30代の中頃、それも色あせて、もう息たえだえになった。
求めても求めも、それは遠のいていくばかりだった。
音楽をもうこれ以上続けられると思えなかった。
思い起こすと、その頃が一番シンドかったかな。
それを乗り越えられたのは、瞑想のおかげだと言っていい。
瞑想に出会わなかったら、どうなっていただろう。

 さて、音楽を学ぶとはどういうことだろうか。
どんな素晴らしい先生に出会おうとも、結局は自分次第、、、
「独学」しかないと思う。
一番肝心なものは誰も教えてくれない。
どんなに遠回りしようとも、
どんなに道に迷うとも、
どんなに遅かろうとも、
自分でやるしか無いと思う。
はっきり言って「シンドイ」と思うよ。
楽な道は、やっぱり無いんだよね。
売れようとも、売れなくとも、シンドイと思う。
よほど好きじゃないとやれない。
或いは運命的なものもあると思う。
スピリチャルな言い方で言えば、「魂の選択」
もっと超越的な言い方で言えば「すべて宇宙の計らい」www
まあ、頑張って欲しいけど、音楽家として生き残れるの人は、そう多くはない。
それでも音楽をやりたいかどうかだけだと思う。
音楽の旅は祝福されている。
ボンボヤージ!!!
音楽は至福だ!!
よい旅を、心から祈っています。

ウォンウィンツァン
2017-09-05
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映画『おみおくりの作法』
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最近、ブルーレイ・ディスク・プレーヤーを買ったものだから、なんか、映画を見るようになっています。

今夜は「おみおくりの作法」(Still life)を見ちゃいました。
この映画を私に薦めてくれた友人は「おくりびと」として、講演活動をされてる上野 宗則さん。
最後のシーンでは、やはり涙が溢れました。

私にとっても「死」は大きなテーマです。
でも、世の中的に、死後について語られることが多い割に、死に行くプロセスが語られることが少なく、その事に反発を感じていました。
特にお葬式の在り方にずっと違和感を感じていたので、妹の時や、この5月に旅立った父の葬儀は、家族葬でやったわけです。
それは、お見送りのセレモニーとして、私たちの想いを反映させた、心に残るものになりました。
だからといって、儀式そのものを否定しているわけではなく、仏式、神式、キリスト教式でも、そこに想いが反映されていれば、どんな形でもよいのです。

映画の中で主人公の上司がこんなセリフを吐きます。
「葬式は、残された家族や友人のためにあるんだよ」
つまり、無縁仏の葬儀は、参列者などいないのだから、もっと簡略化し、葬儀の費用をもっと抑えろと言うのです。
主人公は反論できません。
でも、参列者は、いつも一人だけはいたのです。
それは、無縁仏の家族や関係者を探し出すための調査員、つまり主人公、、、

世の中には孤独死というのがあります。
誰にも看取られることなく、一人で死んでいく人たちです。
独居老人や仮設住宅で人知れず亡くなる人がいます。
自死もそうですね。
しかも無縁である場合もあることでしょう。
熊本県にある、知人のお寺は、そんな無縁仏の葬儀を県に頼まれているそうです。
以前、私は「人は関係性の中で生まれ、関係性の中で死んでいく」と書いたことがあります。
孤独死というのも大きな意味での関係性、つまり社会の問題、私たちの問題なんだと思っているのです。

さて、この映画はメルヘンだと思いました。
私たち人間にはメルヘンが必要なのです。
「死」と言うものを、空想的な神秘の出来事として受け止めることは、私たちの魂にとって、とても自然で健やかな癒やしなのだと思うのです。
この映画はそんなことを思い出させてくれる、良質なメルヘンであり「詩」でもあると感じました。

「おみおくりの作法」公式サイト
http://bitters.co.jp/omiokuri/

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(追記)
5月に他界した父親の葬儀は、家族葬でした。
でも、初七日や月命日、四十九日に法事をしたんです。
親しいお坊さんがやってくれると言うので、お断りする理由もなかったので、お願いしました。
その法事は本当に素晴らしかった。
渾身の読経だったのです。
初七日には伊万里の浄土真宗のお坊さん、月命日と四十九日は松本の臨済宗、チベット密教のお坊さん。
それぞれの味わいなのですが、共通していたのは力強さでした。
読経というものが、これほどパワフルで、感動を呼ぶものかと、認識を新たにしたものです。
お坊さんたちにとって、法事こそが彼等の存在理由なんだな〜と妙に感心しました。
ありがたいことでした。
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by wtwong | 2017-09-03 00:41