<霊的な感受性について>
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 霊的な感受性は、人間なら、殆どの人が持っている。
そんな訳ない、と思うだろうか。
神秘体験や霊的な体験をしている時、大脳辺縁系が活性化することが知られている。
つまり大脳辺縁系を持っている人なら、霊的感受性があるはずだ、というのは根拠になるだろうか。
我が師匠、吉福伸逸氏は「霊的体験をしないということは、その人に何らかの抑圧があると考えていいと思う」と断言していた。
不可解なものへの恐れや不安、あるいは科学合理主義に拘泥している人は、霊的体験に対してブロックがあるのだろうか。

 人間には得手不得手があるのだから、霊的な感受性が強い人もいれば弱い人もいる。
足に障害がなければ、どんな人も走れるけど、100mを10秒で走れる人は殆どいない。
霊的な感受性も同じようなことが言える。

 ただ、100mを10秒で走れる人が、人格的に良い人かどうかは別の問題であるように、霊的感受性が高い人が、霊格が高いなんてまずありえない。
ココらへんが大きな誤解を呼んでいる。
むしろ霊的感受性の高さが仇になって、霊的エリート主義というか、選民意識が強く、とんでもないグルやヒーラーになったりしているのを、巷でよく見聞きすることだ。
私のまわりにはクンダリニーが起きちゃった女性たちや、スプーンをグニャグニャに曲げてしまうサイキック女子が、沢山いる。
何故か男子が少ないけど、、、
彼らはみな普通の人達だ。

 100mを20秒で走る人が、日々の修練によって19秒に挑戦する姿は美しい。
霊的感受性や霊能力をアップさせるために、それなりの努力をすることも、それはそれで良いとは思う。
日常生活や人間関係に支障をきたさないのなら、と言う条件はあるが、、、
ただ、それが霊格のアップのために行っているとするなら、それはお門違いだ。
霊格と霊能力は、はっきり全く別のものだ。

 霊格とはなんだろう?
私もよく解らない。
この人は霊格が高いな〜と感じる人に時々出会う。
感じるということと、解かるということは別のことだ。
その方の霊格の根拠を言葉にすることは出来ない。

 ただ、絶対言えることは、霊格の問題の前に、人格の問題があるということ。
人格の成長を蔑ろにして、霊格の成長は、まず無い。
人格的問題をクリアーできてない人が、あたかも霊性が高いかのような振る舞いは、滑稽だ。
とは言え「人格とはどういうこと?」となると、また違う議論が必要になる。

 さて、幼い頃から子供の才能を見出した親が、その子の成長のために環境を整えてあげようとするのは自然なことだ。
運動能力の優れた子は、環境や適切な指導者によって、100mを10秒で走れる子になるかもしれない。

 では霊的感受性が強い子に関してはどうだろう?
霊的感受性は年令に関係なく、突然開花することがある。
運動能力への社会や世間の理解というものはあるが、霊的なものの社会的理解は、日本には殆ど無い。
子どもの頃に神秘体験をした子どもが、その後、困難な人生を歩まなくてはならなかったという話は、よく聞く。
両親にも社会にも、そのような子ども達を受け入れられるような能力も知識も、今の日本には用意されていない。
沖縄にはノロの伝統があるけど、霊的伝統の神秘主義には、語弊を恐れず言えば、迷妄が濃厚にある。
このことはまた別に議論したい。

 私たちはダライ・ラマやクリシナムルティのような、霊的な英才教育によって成就した指導者を知っている。
しかしそれは、本当に稀なこと、稀有なことなのだ。
たとえ親に霊性への理解があっても、その子が現実社会に住む以上、かなり難しい。
少なくともその子を霊的指導者に育てようとなどはしないほうが良い。
自分の子供を江原啓之みたいな霊能力者にしたいと思う親もいるかもしれないけど、、、、

 運動能力のある子どもをアスリートに育てようとするとしても、その子の人格的な成長も蔑ろには出来ない。
100mを10秒で走れたとしても、それはそれでしかない。
霊的感受性も、それでしかない。
100mを10秒で走ることが出来ることは、その人の存在力を高めてくるように、霊的感受性は、その人の人生を豊かにするだろう。
しかし、それ以上でもそれ以下でもない。
彼の、そして私達の人生の殆どは、社会で生きていくことなのだ。

 子供の霊能力を大事にすることは必要だけど、それを過剰に子供に求めるのは、その子にとって難しい状況にさせてしまう。
子どもは親が求めていることを察知し、無意識にそれに答えようとする存在だ。
親から多くの愛を獲得するために、そのように振る舞う存在なのだ。
子どもの親への忖度能力は、子どもが生き延びるために必要なことなのだけど、、、
そのことによって子供の能力が高まることもあるとは思う。
でも、親がターゲットになっているので、自然な能力の発育にはなかなかなりにくい。
それは霊能力だけに限らない。
すべての能力の成長を促す場合によく起こることだ。
殆どの場合、その子の可能性とは違う方向の能力を親は求めている。

 自然な成長、と言う言葉は、言うのは簡単だけど、やはりとっても難しい。
何れにせよ、その子の成長を見守りながら、過剰ではなく、また、過少でもなく、その子にとって、最も適した、健全な環境を用意することは、至難の業だと思うが、親として、子どもにやってあげたいことだとは思う。

 さて、どんな人も必ず霊的な感受性を持ち合わせている、と書いた。
そのことを最も顕著に体験することになるのが、死というものが身近になったときだ。
死に近づくと、自我が希薄になって、ブロックが取れるのだろうか。
嫌がおうにも霊性が濃密になるのが、死という体験だ。
霊的なことに無知でいると、死に直面して狼狽えることになる。

 35年前、私の母は膵臓がんで他界した。
死の直前、さまざまな霊的体験を繰り返していた。
医者は瀕死の患者がモルヒネなどで、そういう体験するのだと言っていた。
でも、そうではなかった。
あの時、ちゃんと対応できなかったことが残念でならない。
その後、妹や義父を看取ったが、彼らの霊的体験に寄り添えたのは、本当に良かった。
彼らから掛け替えのないプレゼントを与えてもらえた。
実りの深い終末であり、別れだったと思う。
己の終末を、実り多い、豊かな最後にするために、多くの人が霊的な感受性について、健全な知識を持ってくれることを、心から望んでいる。

 人間の終末の霊的体験について、数多い看取りの体験から書かれた、示唆に富んだ文章をここに紹介したい。
是非、読んでほしい本だ。

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