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<命の自己決定権>


6月2日にNHKスペシャルの放映されたドキュメンタリー「彼女は安楽死を選んだ」は大きな衝撃でした。

人が旅立つその瞬間をテレビで放映されたことって、日本ではほとんどないと思います。

私も魂を揺さぶられました。

今、私が感じていることをお話ししておきたいと思います。


昔、まだ医療が進んでいなかった時代は命の指導権は魂、あるいは肉体、あるいは神にありました。

人の死は、事故や戦争以外は、病気も含め自然なことだった、あるいは自然に近い現象でした。

運命に、あるいは神に委ねるしかなかったわけです。

逆に言えば、死について、それほど考える必要もなかったのです。

死について、誰も考えたくもなかった、と言うことでもあるでしょう。


近年、医療が進み、胃瘻や人工呼吸などで、延命させることがいくらでもできるようになり、命の指導権が医療システムや家族の思惑に左右されてしまう時代にいると思うんです。

つまり、自分の意思に関係なく、救急車で運ばれれば、自動的に延命処置をされてしまうのです。

意思表示ができない場合、あとは家族に任せるしかない。

家族にとっては苦渋の選択を迫られるわけです。


今、私たちに突きつけられているのは、安楽死も、尊厳死も、そして延命も、その指導権を医療システムや、家族の思惑から、自分自身に取り戻すことがテーマだと思うんです。

自然や神に任せたつもりが、いつの間にか医療システムのコンベアーに乗っている。

そんなはずじゃなかったのに、いつのまにか、スパゲティー状態にされて、生かされている。

わたしの義理の父は、病院で、呼吸器など、様々な器具を自分から取り除こうとして暴れるので、手足をベルトで繋がれていまいました。

人の命は神や自然の采配の元のはもうないのです。

そのままほっておけば、医療システムに、自分の命を任せてしまうことになるのです。

私たちが今直面しているのは、自分の意思の元に命の決定権を取り戻すか、それとも医療システムに任せるのか、と言うことだと思うのです。

つまり生きるも死ぬも、自分の意思、自我の問題になっていると、そう思うんです。

だとすると、その自己決定権を持っている「自我」ってなんだ?という話になります。

しっかりした死生観を持つ前に、ほとんどの人が自分自身に向き合っていません。

そのような人生を歩んできた人が、死に向き合った時、いきなり死に向き合えるはずもなく、結局はその人の生き方は、死に方になっていくと、私は思うのですが、、、

自分でしっかりとした死生観を持つためには、それなりに勉強する必要があります。

「死の勉強」です。

私たちが「デス・ワーク」を始めた理由はそこにありました。


三十五年ほど前、母がすい臓がんで亡くなりました。

その最後の日の前日、医者が私に聞きました「もう、そろそろいいですよね?」

母が延命処置によって生きながらえていることを知らなかった私は驚きました。

そして、苦しみ続けている母を見てきたので、ただただ頷くしかありませんでした。

多分父親にその判断力がないと感じた医者は私に確認したのでしょう。

何も知らない父は、母が息を引き取るその時まで「死ぬんじゃない。頑張れ!!」と叫び続けていたそうです。

私は母が息を引き取る瞬間には立ち会えませんでした。

寝ずに看病していたのですが、、、

私はその時の引き裂かれた心情を、多分永遠に忘れないでしょうね、、、

母親とは言え、人の命の決定権を持たされたくはないですよね、、、

だから、私は自分で決定したいと思うのです。


「彼女は安楽死を選んだ」に対する世論は様々です。

わたしは、それが善であるか悪であるかと言うことよりも、その女性が自分の命の決定権を行使したことに、強い感銘を受けたのです。

同じように、そのドキュメンタリーでは、延命を選択した同じ病気の人も丹念に取材しています。

どちらの命も、自分の意思で選択したこと、そのことがこの映像が最も伝えたかったことではないでしょうか。


今回の文章は、以前、ファイスブックにあげた「彼女は安楽死を選んだ」について書かれたものを、加筆、修正したものです。


ウォンウィンツァン

2019/06/09


# by wtwong | 2019-06-09 01:40 | essay