<Parfect Days> 感想・続編2・異論
この映画が優れている面は色々あるのですが、
実に色々考えさせられるという面でも、やはり特異な作品と言えます。
今、私が語りたいのは、映画というものが実現しているその背景には、色々な制限、というかある限定性がないと成立しない。
特にメッセージ性が際立つ映画ほど、そのような限定性も強いものにならざるを得ない。
つまり、その物語を支えている次元を解体してしまうような、別次元が同時並行的に存在しているはずなんですね。
なにしろ私たちは様々な次元の全体性の中にいるのですから。
その意味で、以下のセリフに私は大きな違和感を感じました。
「この世界は、いろんなたくさんの世界があって、それぞれの世界は繋がっているようで、繋がっていない世界もある」
私は思わず「え~~」と言ってしまいました。
私観だと、たとえどのような世界であっても、底辺でも繋がっていない世界などない、と思っているからです。
様々な次元で繋がっているのですが、たとえば、私たちはこの「社会のシステム」にしっかり繋がっているし、そのシステムに支えられて、あるいは包摂されて、あるいは拘束されて、ようやく存在している。
ほとんどの人間は、その中でしか生きられない。
具体的には、アパートの一室は、家賃システムや建築法や、水道インフラや、外に出れば自販機があり、車に乗れば交通システムがある。
私たちは日本のルールのシステムから外れて生きてはいけない。
それに、メディアから伝えられるニュースがあり、もし望むのならSNSを通して、ガザのジェノサイドにも、ウクライナの最前線にも意識を向けることができる。
私は昨日、この日本のルールに真っ向から向き合った<茶飲友達>という映画を見ました。
(この映画も以前から気になっていました。
その映画評は改めて書きたい)
一方、映画<Parfect Days>はその舞台背景は一切感じさせないように出来ている。
私はどんな映画にも限定性による違和感を感じているのですが、違和感を持ちながら映画は見れないので、あえてそれを横に置いて、つまり映画作家の設定をあえて受け入れて、ようやく作家の世界に身を置くことができるんですね。
平山は過去に、たくさん失い、損ない、そして決別したことが、うっすらと映画を見る側にイメージさせるのですが、そのナマな体験は一切、映画の中では切り捨てられている。
その最も核にあるのが「親子のシステム」です。
妹が平山に「お父さん、もう訳がわからなくなっているけど、昔のようじゃないから、一度ホームに会いに行ってあげて」と言う。
すると平山は首を横に振って硬くなっている。
痛みは癒えていない。
でも私は「それでいいのか?」と思うわけです。
先述した社会問題に向き合った感動した映画の中でも、やはり親との確執の中で、会い行こうとしない主人公がいます。
その主人公がようやく重い腰を上げて会いに行くと、やはり母親と大喧嘩になってしまう。
家を出た主人公を弟が追いかけてきて「また会いに来てほしい」という。
すると主人公は「いつかね」
「いつかって、いつ?」
「いつかは、いつかだよ」
これ<ParfectDays>に同じ会話がありましたよね。
同じ2023年に公表されたこの映画の監督は意識したかのかも。
そして弟が返答します
「もう、いつかは、ないよ」
母親は末期なんですね。
映画<Parfect Days>は、本当にパーフェクトな映画だと思う。
でも、それはある限定された条件の中で、ようやく「ありうる」虚構の世界であることを、私は意識の片隅から取り除けない。
私たちという存在は、様々な次元の、その全体性の中で漂っている木の葉のようであり、それゆえにいつも揺るがされ、不安定な存在として、ようやく何かにすがるように生きている。
あるいは流れるままに生きている。
そのようにしかあり得ない弱い存在ゆえに、映画<Parfect Days>のような、夢物語を求めることも確かなのですが、、、
ウォンウィンツァン
2025/02/01

