自傷行為としての演奏

二十歳の頃、私にとって演奏は自傷行為だった。
鍵盤に指を打ちつけ、爪が割れ、血糊で白鍵が染まることが、私が演奏でやろうとしたことだった。
演奏は、自傷行為であるとともに、社会への復讐でもあった。
あの頃の演奏を知っている友人が「音が胸を突き刺す」と言い表したものだ。
強いこと、激しいこと、早いこと、壊れていること、許さないこと、、、
そのような演奏は、音楽ではなかった。
音楽になってはいけなかったし、音楽などどうでも良かった。
しかし、音楽のおかげで、死なずにすんだのだと思う。

演奏によって、抑圧されたもの、狂気したもの、を解放していたのだろう。
もし私に音楽がなかったら、反社会的な行為の末、自害していたかもしれない。

しかし、そのような自傷的で破滅的な演奏行為は、長く続くはずがない。
そのような音楽は、自分自身や周縁を傷つけ、疲弊させた。
数年もすると、自堕落でデカダンな生活も加担して、肉体的に精神的に続けることができなくなってしまった。
自分自身を少しずつ殺し続ける演奏行為は、早晩、破綻するのは当然だった。
私の演奏活動は挫折したのだった。

自傷行為のその本質は、何とかして自分を助けたいという、追い詰められた者の必死の転倒した表現だ。
たとえ自傷的であっても音楽には、実は自分自身を生かしめたいという、魂の本質的な叫びが滲んでいたと思う。

私は、そのような破壊作業としての音楽の向こうに「何か」が微かに見え隠れするのを感じ始めていたのだ。

「何か」とは「何か」なのだ。
明確なヴィジョンが見えたわけじゃない。
私は自分を生かしたいがあまりに妄想したのかもしれない。
険しい山の、霧に霞む頂から、私を見下ろし、微笑むミューズがいると、、、
その意味で、その挫折は「音楽の本質」と云うアテにならない夢を追い求める困難な道を歩む、新たな出発でもあった。
数年間の自傷行為としての演奏活動は、その時に終わった。

40年が経ったいま、何故かあの夢のような数年間のことをよく思い出す。
あれは一体なんだったのだろう。
「夢の解読」が常に答えを断定できないように、あの数年間のほんとうの意味は永遠に解らない。
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by wtwong | 2011-01-07 04:06 | essay