高須英輔氏の造形作品の撮影

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作品をどのように展示するのか。
それがどんなに大きなファクターだろうか。
そのことに意識を向け始めたのは、実は最近のことだ。
写真にしろ絵画、造形、インスタレーションなど、どのような空間で、どのような照明をあて、どのようなコンテキスト(文脈)の中で、それらを観るのか、それで作品の評価は決まってしまうと言っても過言ではない。
今まで、そのような付加的な要因は作品の価値に関係ない、作品それ自体に存在感があれば、場所や時間に関係なく人に訴えかけることができる、そう考えてきた。
しかしそれは、人間が表現をどのように享受するのかという、本質的な視点を無視した、実に薄っぺらい芸術精神論に過ぎない。
ある写真家の友人が、自分の作品を真っ暗な空間に展示し、行灯の光だけで見せたい、と話していた。
その作品は、殆どコントラストがない、女性の裸体のなめらかな曲線に浮き上がる精妙な陰影だけが、幻のように浮き上がっている写真なのだ。
今なら彼が謂わんとしたことはわかるような気がする。
彼の写真作品を、そのような空間で観てみたい。
作品を観るという行為は、儀式であり、瞑想なのだ。
儀式とは「作品と魂との対峙」であり、瞑想とは「作品と魂が融け合う」と言うことだ。
したがって、それにふさわしい時空間が必要なのだ。
川村美術館のマーク・ロスコの展示室はそのような瞑想空間だったのを思い出す。
高須英輔氏の造形作品を撮影するのは今回で二回目になる。
前回に比べると今回の自分の意識のあり方がぜんぜん違うのに気づく。
作品をどのように設置し、どのような照明をあてる時、作品の持つ何が観えるのだろうか。
撮影行為は、まさに儀式であり、瞑想であった。
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