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介入か、あるいは静観か、、、

たとえば、相手のために何か正しいことをしようとする。
たとえ本人が拒否しても、それはするべきことだろうか?

それとも、たとえ相手の動向が正しくなくとも、それを尊重し静観すべきか?
もしかしたら生死に関わることであっても、それは静観するべきか?

前者は、多くの場合、相手はそれが正しいとは思っていないし、余計なおせっかいだと思わることも多い。
もしかしたら、相手の意向を否定するのであるから、リレーションは難しい物になってしまうだろう。
しかし、その事によって相手が助けられたら、リレーションは回復するかもしれないし、より深いものになる可能性もある。

逆に、強制は相手の意向を否定するので、たとえ相手が助けられるようなことがあっても、感謝の念はわかないかもしれない。
それでも「正しいこと」をした者は、感謝は得られなくとも、自己満足はするのかもしれない。
しかし殆どの場合、相手の選択を無理やりやめさせることも、正しいと思われることを強制することもできない。

後者の場合は、尊重が相手の心を開かせ、リレーションは深くなるかもしれない。
保たれた関係性の中で、根気よく会話を通わせながら、心を変えさせることもあるだろう。
しかし、最悪の場合、時すでに遅しで、命を失わせる結果になるかもしれない。
その場合、無為でいた自分を責めることになる場合もある。
なぜあのとき介入してくれなかったんだと、逆ギレされることもないとは限らない。

答えはない。
選択はその時々のさまざまな要因や条件によって、恣意的に決められていく。
正しい選択など無いのだ。

生死という、ある意味究極な状況を設定して考察を進めるのは、あまり意味が無いかもしれない。
殆どの場合、それが命に関わるかどうかすらわからない。
それに、相手が拒否する以上、たとえ正しいからといっても、強制することはできないからだ。
さらに、それが「生」だから正しく、「死」だから間違っていると、実は言い切る根拠はない。
相手は、無意識下で死を選択しているのかもしれないのだ。
しかし、目の前で腕に刃物を当てている人を、何もせずに静観できるとしたら、人格として何かが欠落している。

あらゆる場合で、事情はもっと複雑だ。
相手も当人も、それが正しいと言い切れない場合が多い。
正しいと言い切っている人は、相手の言い分を聞くことがなく、其の様な決めつけや押し付けは、よりいっそう相手の拒否を招くだろう。

親子の場合、日本の母親は子供に対して過剰に介入し過ぎで、子供の自分で物事を判断する能力の成長を妨げていると、私の師匠が指摘していたことがある。
たとえ正しくない選択だとしても、本人が体験し、それを修正することによって、正しい道を学ぶ場合と、用意された正しい道を無自覚に歩んでいる場合とでは、自ずとその認知の深さは変わってくる。
間違っていても、一度は歩むべきなのかもしれない。
しかし、取り返しのきかない場合もあるわけで、その時は親が介入しなければならない。

逆に介入しなさすぎる親もいる。
(ネグレクトのことではない。それは親の責任放棄だ。)
その場合、子供の自主性は育つかもしれないが、独善が強く、身勝手な子供にならないとも限らない。
大抵の場合、若者の独善や身勝手は私は歓迎したい。
日本の教育は、若者のエネルギーを損なっていると、私には思える。
若者はいつか、成長のプロセスでそれが独善や身勝手で、それでは人はついてきてくれないことを学ぶ、はずだ、、、

介入好きな人は、相手が変化しないことに勝手な失望をだく場合が多い。
せっかく正しいことを教えてやったし、その時は納得していたのに、結局何も変わらんじゃないか、、、
其の様な人は、自分の介入は正しく、人はそれに従うべきだという傲慢から抜け出ていない。

相手の意識を自分に向けさせるために、介入を誘う人も多い。
疾病利得というのがそれだ。
自分が病むことによって、相手の注意をひくのだが、、、、

介入する場合でも、それが自分のもしかして独善による、一方的な押し付けにすぎないかもしれないという自覚を持たねばならない。
介入を拒否され、正しい自分の提言を受け入れない相手を批判するのはもっての外だ。
相手の主体性を尊重せねば、リレーションなどありえないだろう。

介入するか、あるいは静観するかは、その時その時のあらゆる要因の総体的な結果を、論理よりも直感によって感じつつ、その時その時に即応的に判断し続けるしか無いのだと思う。

全面的な介入や、また全面的な静観はありえない。
その時々で度合いやタイミングというものを図る、絶妙なスキルも問われることになる。
相手を尊重しつつ、必要な時に、最も必要なものを提示できるかどうか、其の様な心の技術は、人間としての奥行きを持っている者にしかできない。

人間としてこの社会に生きているということは、お互いに何らかの介入を、し合うということなのだから、一方的ではない、本当に相手を「愛するところ」から、介入と静観とを、送り届けるものでありたい。
そう思い至った昨今である。
by wtwong | 2011-12-18 12:06 | essay