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持続的に脱原発を戦うために

平和運動や環境問題に取り組んでいる人もそうだけど、脱原発運動を続けていると、燃え尽きたり、心折れてしまう人が出てくる。
無理もないと思う。
事態はなかなか好転しないし、周りからの理解を得られず孤立してしまう。
運動にのめり込んでいる人ほど、どうすることもできないような袋小路に入っているような無力感や焦燥感にさいなまれてしまう。
福島など線量の高い地域にいる子供たちや妊婦さんを思うと、いたたまれない気持ちになる。
彼らのブログなどから、実情の悲惨を知るにつけ、心が引き裂かれる思いを持ってしまう。
東電や政府の欺瞞や悪徳に、怒りが爆発しそうになる。
そして、彼らに対する怒りを向けている自分自身にも傷ついてしまうのだ。
平和運動や脱原発運動にのめり込む人の殆どは、精神的にとてもナイーブな人が多い。
間違っていること、人が苦しんでいることを見ないでいること、そういう事が許せないのだ。
311以降、私たちは社会の悪というものを目の当たりにしている。
脱原発に声を上げていくことは、人間として、余りに当然の事のように、私には思える。

原子力ムラの執着と結束は相当なものがあると思っていた。
国民の脱原発指向は95%以上にも関わらず、経団連300社はSB社を除けば、全社推進派だ、、、
東電の株主総会では、あれだけ地域の人々の犠牲と、日本や世界に迷惑をかけながら、反省するどころか、ほとんどの株主もやはり原発推進。
過剰な電気料金や原価総括方式という打ち出の小槌を、それがどんなに他の人の犠牲の上にあろうとも、手放したくない。
それを「経済の活性化」などと言うのは詭弁も甚だしい。
私たちは其の様な厚顔無恥で人の犠牲などお構いない、人間性が歪んでしまった人々を相手に戦っている。
傷つきやすい分、あるいは不利なのかもしれない。
しかし其の様なナイーブな感性、他の人の痛みを感じとることができる受容力があるからこそ、社会の歪が許せないし、戦うことを選択したのだ。

311から9ヶ月が経った。
私たちの戦いはまだ続くだろう。
多分、長期戦になるかもしれない、たぶん、、、。

私達が、困難な脱原発運動を、戦い続けるためには、それなりに「魂の戦略」が必要になってきたと、私は思う。

のめり込み過ぎて、疲弊している人に「やりすぎるな」というサゼッションが飛んでくる。
そのようなサゼッションをする人は、運動の何たるかを判っていない。
のめり込まずにすむ訳がないのだ。
しかし、のめり込み続けることは、やはり人間はできないのも確かだ。
もし出来うるなら「原発は私が止める」ほどののめり込みと、そんなことは私の人生には何の関係がないと思えるぐらいの距離のとり方の、双極を自由に横断が出来ると、どちらもパワフルになってくる可能性がある。
全面的に関わる時と、その事から切り離す時のメリハリ。

世界から戦争と原発の全てがなくなることをイマジンしながら、夢に拘泥しないしたたかさ。
頭(観念)に登り切った血を、肉体に戻してやる時間や方法を持つこと。

脱原発や平和運動というものに携わっている自己イメージを高めることも重要だ。
その事に関わっていることが自身の存在と命を高めていると実感できること。
つまり、その事に携わっていることが「生きがいなのだと」ぐらいに喜びを感じていること。
311以前、私たちはこんなに社会問題に向き合うことがあったろうか。
私たちは成長したのだ。
脱原発運動に携わる時、私はワクワクしている自分に気づいている。

一番消耗するのは、無力感と、周りや社会の無理解や、動いてくれないことへの苛立ち、、、
自分を高めるチャンスなのだ。
可能な限りの最善の運動をしながら、その結果に対し、手放すこと、こだわらないこと、囚われないこと。
飄々(ひょうひょう)と、屹然としつづける魂の強さ。

人類が始まって以来、いや、ビッグバン以来、この世界は起こるべきことが起きていている。
それはすべて必然的に運命づけられている、と感じられると、社会的な自分というものを手放すことができるようになる。
実は、原発を推進する人も、無関心な人も、それぞれの役割を演じているにすぎないのだ。
なにが起ころうとも、あるいは福島の原発事故さえも、すべては起こるべくして起こり、ビッグバン以来、宇宙が進化し続けているように、私達人間の進化のために起きていることなのだ。
311以前、私たちはどうだったか。
無自覚だっただけじゃないか。
しかし今、私たちは目が覚めた。
不謹慎を承知であえて言うなら、原発事故のお陰で、私たちは成長したのだ。
私たちは二度と戻ることのない、成長の途を歩んでいる。

私たちは怒っている。
私たちは大いに怒らねばならない。
しかし、頭だけで怒り続けると、エネルギーが滞り、実に具合が悪い。
肉体に戻してやらねばならない。
私はピアノを大音量で叩き続けることがある。
指ではなく平手や肘で叩くこともある。
私設のスタジオから音が漏れてしまうのだが、一向にかまわない。
ピアノは相当頑丈だ。

古代インドの宗教的、哲学的、神話的叙事詩に「マハーバーラタ」がある。
ヒンドゥー教の聖典のうちでも重視されるものの1つだ。
同族同士の戦いが大きなテーマになっている。
勇士アルジュナは、自分の肉親や友人たちと戦うことが出来ない。
かつて親しかった彼らに剣を向けることなど、どうして出来よう。
するとクリシュナ神があらわれアルジュナにメッセージを与えるのだ。
「ヨーガスタ・クル・カルマーニ」
ヨーガ(宇宙の意志)に繋がって、行動せよ、と、、、、
by wtwong | 2011-12-20 03:49 | essay