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旧友の自死について

今年の6月、高校時代からの親友が自死した。
最も古い交友関係だ。
あの当時、わたし達は文学青年同士だった。
私は太宰治に心酔し、彼は坂口安吾に傾倒していた。
原口統三という二十歳で自害した詩人について私が話すと、
彼は村山槐多という夭折の画家について熱く語っていた。
乱暴な酒を飲んでは、
あてども無い難しい観念的な議論を弄んでいた。
デカダンという言葉を彼から習った。
そんな文学的なダンディイズムを身にまとって、
淡い青年時代を共有した、無二の親友だった。
ある時、甘えから彼を傷つけてしまうこともあり、
一時は交流のない時期もあった。

再会してからは、コンサートに来てくれたり、
CDも購入してくれたりしていたし、
年に一回は会って、
夜遅くなるまで、
とめどなく話し続けたものだった。

彼は高校を卒業したあたりから
家庭的に難しい問題を抱えていたようだったが、
その事は深く話そうとはしなかった。
彼には閉ざさねばならない、
深い傷を持っていたと思う。

両親は数年前に先立たれ、
連れ合いも、子もいない、一人暮らしだった。
昨年から緑内障や、黄斑変性がひどくなって、
失明の不安を抱えていたと言う。
読書家で蔵書家であった彼にとって、
本が読めなくなることは、
どれほどの失望だろうか。

後見人になった人と
生きる価値について話し合ったという。
「人には死ぬ自由があるのか」とも問われたという。

人は、生きる自由があるように、
死ぬ自由もあると、私は思う。
しかし、人が生きる本質的な理由が与えられていないのと同様に、
死ぬ本質的な理由も与えられていない。
生きる価値を論理的に証明できないように、
生が無価値であることも証明できない。
わたし達の「いのち」はそのような次元には存在していないのだ。

自殺を考える人の心想には深い絶望が横たわっている。
しかし絶望は「過去」や「未来」に属していて、
「今」には絶望は存在しない。
過去の自責や喪失、未来への閉塞と不安、、、、
しかし「今」には絶望はない。
「今に生きる」ものは、生きる価値を問うことはない。
しかしそのような「認識」が彼に伝わるだろうか。

わたし達の生き方や考え方は、
高校時代のそのままではあり得ない。
当然のことだ。
人生観というものは、人それぞれの生き方の中で、
刻々と変化し続けていく。

私は25年前にインドに伝わる瞑想というものを始め、
この10年ぐらいはトランスパーソナル心理学に意識が向いている。
生きることの考え方や、人間観は、今も大きく変化し続けている。
彼とのライフスタイルそのものの違いから、
同じ土壌での会話が共有しにくいと感じていた。
毎年一回は会っていたのに、
郊外に住んでいた彼の所にそう気軽には行けないこともあり、
少しずつ疎遠になり始めていた。

死を考える彼らが直面しているのは、
一言で言えば「孤独」以外にない。
自殺者の原因は、就職問題、経済問題、病気の問題がよく言われるが、
何よりも友人や他者との関わりが希薄になること、
つまり「孤独」が一番の原因ではないだろうか。

それに、多くの人がそうであるように、
心の奥底にある開放されないものを、
彼もまた持っていたし、
そしてそれを閉ざしていた。
自ずとわたし達の関係は希薄にならざるを得なかったのかもしれない。
でも、会いたいと思っていのだから、会いに行けばよかった。
寄り添ってあげられなかったことに、やはり悔いが残る。

彼は死ぬ前に、蔵書やLP、CDなどのコレクションのほとんどすべてを売却していた。
身の回りを全てをきちんと整えて、旅立っていったのだ。
本気で死のうとするものは、誰にも引き止めることは出来ない。
そうは思っても、やはりなんとも言えない無念な気分は残っている。
私の人格を形成している一部分が、抜け落ちてしまったかのようだ。
彼に会えば、いつもあの文学青年時代の気分が沸き起こったものだった。
私にとって彼は青春の象徴そのものだった。
私はそれを失った。
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by wtwong | 2013-10-24 20:27 | essay