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「ヒエラルキーや階層を超えて、、」

「ヒエラルキーや階層を超えて、、」

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 社会勉強を始めて思うことの一つに、この社会はよく見えない階層があって、よく解らない階級闘争のようなものがある、ということだった。右翼と左翼、ブルーカラー、ホワイトカラー、資本家とプロレタリアート、保守と革新、貧困層と富裕層、などなど、、、様々なメジャー(定規)を尺度に、だいぶ分類できるようになったとはいえ、どこか釈然としないでいる。ヒエラルキーというものがどういう構造になっているのか、、、

 そして改めて自分のライフスタイルがどの階層にも属していないことに、なんとも言えない浮遊感を感じてしまうのだ。それぞれの世界や階層に生きている人のリアリティーが解らないのだ。そこに住んでいないのだから、当然のことだとは思う。例えば実際の話し、どの階層にいる人と会っても話がわからないのだ。共通話題がない。彼らへのシンパシーを持ったとしても、彼らからすれば偽物にすぎない。

 ただ、ある場所に行くと、それぞれが帰属する階層や世界とは関係なく、出会えることがある。それは瞑想合宿やワークショップ、座禅断食会などでだ。ワークや瞑想や断食は、その人の帰属する社会とは全く関係がない。あらゆる人種が参加しているのだ。ワークショップや瞑想や断食をする目的は人それぞれあるかも知れない。ただワークショップも瞑想も断食も、現実世界から一歩退いて、あえて言うならば何らかの超越的な何かに触れようとする実際的な行為だ。そこではそれぞれが帰属する世界での役割は一切意味がなくなる。社長だろうと技術屋であろうと主婦であろうと関係がない。ある意味人間そのものになっていく。そして人間としてお互いに出会うのだ。

 瞑想や断食、ワークショップなどで、社会でのそれぞれの役割を捨て、一人の人間存在そのものになるような体験をした人は、どこかで「慈悲心」のようなものも生まれてくる。仏教用語で言うなら、それぞれの出会った人から「仏性」のようなものを見抜く力がつくのかもしれない。もしヒエラルキーを超えて、それぞれの階層が深く結びつくことが出来る「場」があるとするなら、多分そこでしかない。人間は現実世界での役割や階級を背負う限り、人と出会うことは出来ない。一度それぞれのペルソナ(仮面、役割)を外すことが出来れば、自分自身にも出会う契機にもなる。

 人は言うだろう。「瞑想や断食やワークショップに参加する人はごく一部の人だ」と、、、多分そうだと思う。余程のことがない限りこの社会で瞑想や断食やワークが一般的なことになるとは思えない。だけど、ハッキリ言えることは、言葉の誤解恐れず言うならば、人間は本質的に「霊的存在」なのだ。たとえそのことに気づかずにいても、人生の最期、死に直面した時、人は必ず霊的存在そのものになり、そのことに嫌でも気づかざるをえないだろう。その時はもう遅いかもしれないが、、、

 今の社会は階級闘争で成り立っているという人は多いだろう。そうだろうか?もしそうなら今頃はもっと殺伐として世界になっているのではないだろうか。たしかに年間自殺者3万にも出ているこの社会が、慈悲心にあふれているとは言いがたい。でも、それでもわたし達の世界は慈悲心で成り立っていると私には思えることがある。お互いがお互いを必要としているのだ。ひとたび自分が「存在そのもの」であることに気づく人々が増えるなら、この社会はもっと成長し発展し、住みやすくなるだろうにと、夢見るのは私だけだろうか、、、
by wtwong | 2014-02-23 14:56 | essay