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<知性と、弱さのこと>ウォンウィンツァン

<知性と、弱さのこと>
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 数日前にブログ「知的であるかどうかは、五つの態度でわかる。」をアップしましたが、意外とたくさんの方がシェアしてくれて、関心が高いことに、驚きはしなかったけど、なるほど〜と思いました。
このテーマにはいろいろ奥行きがあると感じました。
私は茶化して「無い爪は隠せない、、、」なんて書いたりしましたが、ちょっとまじめに思うことを書いてみます。

 ブログの最後に「知的である、というのは頭脳が明晰であるかどうか、という話ではなく、自分自身の弱さとどれだけ向き合えるか、という話であり、、」と書かれています。
この「弱さ」と言うのがキーポイントだというのです。
そも、その人が知的であろうとなかろうと、誰でもが「弱さ」をもっています。
つまり萬人のテーマなんですね。
ただ、ここでは「弱さ」とは何か書かれていません。
それに「弱さ」に対するものは「強さ」だとは書かれていません。そこが肝心です。

 筆者が処方する「態度」を見ると、むしろ「柔軟」であるとか「受容力」だったり「相対的に物事を見る」というような視点やスタンスを「態度」と言っているように思います。
そして最後に「大変な忍耐と冷静さを必要とするものなのだ」と書かれていますが、忍耐とか冷静さって、限界があるので、それだけでは「弱さ」は取り除けなさそう、、、、
逆に言えば「弱さ」の本質を知るなら、忍耐や冷静さがそれほどなくとも、自ずと「態度」は楽になって、コミュニケーションもスムーズなり、なによりも人生、生きやすくなりますよね。

 すいません。ここまで書いて、だんだん面倒くさくなってきてしまいました。(汗)、だってこのテーマだけで一冊本が書けちゃうほどですから、、、
大雑把に要点を言えば「弱さ」とは「自我」と「アイデンティティー」に関わるということです。
「弱さ」を感じる時、つまり揺らいだり、不安になったり、怒りを感じたり、人に対して高飛車になったり、自己嫌悪やコンプレックスに落ち込んだり、プライドが傷ついたり、そんな時は「自我」や「アイデンティティー」が脅かされている時なんですね。

 大辞林には「自我とは、自分、自己、意識や行為をつかさどる主体としての私、、、」などと書かれています。
つまり「自分というものを成り立たせている、様々な心的な<鎧>」のことですね。
そしてアイデンティティー(自己同一性)とは「時や場所を超えて一個の人格として存在し、自己を自己として確信する自我の統一性、、、」とかって書かれています。
これは、例えば私だったら「音楽家」とか「在日二世」とか「男性」「父」「夫」「長男」というのもアイデンティティーだし、その人をその人として「社会への顔(面)」を成り立たせているものですね。
ペルソナとか言ったりします。

 もうお判りだと思うけど、自分を自分として成り立たせているのは「鎧」であったり「社会の面」であるということは、必ず揺るがされるということです。
必ず壊れるということです。
それは内側、無意識からの反発や攻撃であったり、外部、人間関係、社会規範からの攻撃であったりするわけです。
たとえどんなに強い鎧も、鎧であるかぎり、必ず壊れます。
「社会の面」もいつも危険に晒されます。
例えば「音楽家」は常に優れているかどうか、好みかどうか、美しいかどうか、才能があるかどうか、様々な物差しで、聴衆から、それに自分自身からも、評価に晒されます。

 例えば今回のブログのテーマは「知的、知性」つまり知的エリートたちと言う人に向けられているけど、彼らの自我の鎧というのは、たいてい「言葉」だったり「論理」だったりするわけです。
論理武装というやつですね。
つまり「異なる意見」「無知」「知識の優劣」という尺度で常に危険に晒されます。
つまり異論は「自分への攻撃」と感じるんですね。
自分の論理がほころびそうになると、もう大変。
世界が壊れてしまうほどの恐怖を感じ、怒りを感じ、更に強い論理、鎧の強化に励むわけです。
そんな知的エリート、幾らでもいますよね。

 私の師匠、吉福伸逸さんは「弱い自我」の対語は「強い自我」ではないと言います。
つまり鎧は硬ければ硬いほど脆くなるんですね。
年をとってますます頑固になるのは、これですね。
自分の弱さを超えられていないと、孤独な老後になってしまう。
多いですね。
政治家にも多いですよ〜〜。
強固な鎧の症状としては「否認」、つまり違う意見や都合の悪い真実を認めない、そして怒り出す政治家。
だれでしょうね、、、

 さて、では「弱さ」を越えていくものは何でしょう。
それは「自我」や「アイデンティティー」を超えた向う側にある「本当の自己」に出会い、受容すること、、、
「自己の本性に出会うこと」
「魂そのものに直面し、受け入れること」、、、、
ああ、やっと本題の入り口まだたどり着いた〜〜ふ〜〜〜

 でも、もう力尽きました。(汗)
どうやったら「自己の本性」に向き合えるか。
少なくともそれは知的な難しい作業では辿りつけない。
言葉を駆使したり、暗示にかけても、だめ、、、
実は瞑想も本性に出会わせてはくれない。
瞑想はスピリチュアリティーにとって必要だけど、本性を覆い隠してしまう可能性もある。
むしろとっても楽しい、子どもたちがやるゲームのように、楽しむことによってしかかそこに辿りつけない。
言葉による操作ではなく、そこにいるだけで始まるゲームに身を委ねている内に、開放されていく。そういうものなんですね。

 吉福伸逸さんのワークショップは、結局「自己の本性」に直面することが一番大きなテーマだったと思いますが、とって自動的で、楽しいものでした。
吉福さんのワークに参加するようになって、どれほど自分が開放されたかわかりません。
そして私が美枝子さんとやっている「たましいの表現ワーク」。
そして友人のセラピスト向後善之さん、新海雅彦さんとやっている「たましいの航海術ワーク(体験的グループセラピー)」も吉福メソッドをベースにしています。
ぜひ皆さんも興味があったら参加してみてください。

大雑把になっちゃいましたが、参考になると嬉しいです。
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一つ目は、異なる意見に対する態度

知的な人は異なる意見を尊重するが、そうでない人は異なる意見を「自分への攻撃」とみなす

二つ目は、自分の知らないことに対する態度

知的な人は、わからないことがあることを喜び、怖れない。また、それについて学ぼうする。そうでない人はわからないことがあることを恥だと思う。その結果、それを隠し学ばない

三つ目は、人に物を教えるときの態度

知的な人は、教えるためには自分に「教える力」がなくてはいけない、と思っている。そうでない人は、教えるためには相手に「理解する力」がなくてはいけない、と思っている

四つ目は、知識に関する態度

知的な人は、損得抜きに知識を尊重する。そうでない人は、「何のために知識を得るのか」がはっきりしなければ知識を得ようとしない上、役に立たない知識を蔑視する

五つ目は、人を批判するときの態度

知的な人は、「相手の持っている知恵を高めるための批判」をする。そうでない人は、「相手の持っている知恵を貶めるための批判」をする。

知的である、というのは頭脳が明晰であるかどうか、という話ではなく、自分自身の弱さとどれだけ向き合えるか、という話であり、大変な忍耐と冷静さを必要とするものなのだ、と思う。

2017/09/05
by wtwong | 2016-01-20 08:32 | essay