<経験と学び> ウォンウィンツァン

<経験と学び>
71歳の今の私は、様々なハードルをそれなりに乗り越えて、音楽というもの、人生というもの、人間というものに何らかの見え方が少なからず出来ていて、しかもそれがまだまだプロセスの中にいることも自覚しながら、やはり重ねてきた経験というものに何らかの意味があることを知っている。
経験には何らかの意味がある。
師匠、吉福伸逸氏は「あらゆる艱難辛苦を体験し、かつ健全なパーソナリティーを持ち得た人こそが、優れたセラピストになりうる」と語っている。
苦しみを共感できるのは、同じ苦しみを味わったことがある人にか出来ないことだ。
そして、彼が亡くなる直前、私に語った言葉を、私は何度も反芻している。
「私の論考で、経験に基づいたものについては語り得ていると思う。でもその他のことは結局ロマンチズムに過ぎなかったと思う。」
その言葉には、自分が重ねてきた仕事に対する、とっても厳しい誠実な態度が現れていて、私は深い感銘を受けた。
私にとって人生で師匠と言える人は唯一、吉福氏だけだった。
彼のもとで、私はクライアントの前で取りうる態度やメソッドというものを学んだ。
しかし彼は実際にはあまり具体的に教えるということはしなかった。
彼が理屈で覚えてしまったものは、身にならないという、わりと古い師事の考えを踏襲していて、実際的な方法を教えてくれなかった。
グループセラピーの現場で吉福さんは私に声をかける。
「ウォンさん、今、何が見える?」
何も見えていないので、ドギマギするしかない。
的を外れた答えに、何度もがっかりされたものだった。
そのお陰で、ずいぶん遠回りしたような気もするし、それこそ身になったような気もする。
論理的背景を知ることと、体験的に体得することと、それらはどうあるべきなのか、どう配分されるべきなのか、答えがあるわけじゃない。
私は音楽上の先生と言える人に出会わなかった。
音大の作曲科に数ヶ月在学し、先生という人がいたけど(今考えると素敵な先生だった。私のバルトーク風の作曲を評価してくれもした。)
でも、彼から教わる音楽的エッセンスは何もないと、その時は思っていた。
今の私の音楽上のエッセンスは、自分自身で探究し、自分自身で獲得したものだ。
もちろん獲得したい音楽的エッセンスは、レコードの向こうの先達やミュージシャン仲間が開示してくれている。
しかし彼らは自分が持っているエッセンスを私に伝えるべき方法を持っていなかった。
何しろ先生はレコードの向こう側だし、直接的に教わることは出来ない。
また本来的にそのエッセンを持っている演奏者たちは、それを人に伝える方法を持っていない。
私の音楽のエッセンスは、本来的にアプリオリに持っているものではなく、探究と習得の中で、独学で獲得したものだ。
逆に言えば、私自身が本来的に持っていたエッセンスなど、なに一つもない。
すべて、先達や友人たちが私にもたらしたものだ。
彼らにどれだけ感謝しているかわからない。
それ故に、私は、それらのエッセンスを獲得したいと思う他のミュージシャンに伝える方法を知っていると思う。
誰だって獲得できるものなのだ。
本来的、先天的にそのエッセンスを持っている演奏者は、それを客観的に人に伝える方法を持っていない。
でも、私にそれが出来ると思うのは、後天的に獲得したものだからだ。
私は吉福さんのような昔気質な子弟関係は、何か封建的な匂いがして、苦手だ。
教えられることは、そのまま伝えたほうがいいと思っている。
でも結局、自分で思うことを自分でやって、失敗を重ねながら、学んでいくしかないことも確かなのだ。
知識的に獲得したものが身になるとは限らない。
その本当の価値を感じ取ることはできない。
価値を感じないものに、大事にする気持ちが湧くわけもない。
さて、私たちは若い魂たちに、いったい何を伝えられるだろう?
今、若い頃の自分を振り返って、羞恥心とともに反省することがある。
それは未熟に無自覚で、経験もないくせに、不遜で傲慢で、プライドばかりで、謙虚さというものを持ち合わせていなかったこと。
なんとも箸にも棒にもひっかからない、という奴だった。
もし、タイムマシーンで若い自分に出会えたなら、一言言ってやりたい。
「謙虚であれ、、、誠実であれ、、、」
もし若い自分が、もう少し謙虚で、不遜でなく、未熟に対して自覚的であったら、もしかして「師」という存在に出会えたかもしれない。
いや、出会えたはずだ。
師という存在は、もし心が開かれた状態なら、自分の周りに偏在している。
上述した音大の先生は、今思うと良い先生だった。
もし私がもっと謙虚で、不遜でなく、自分の求めてるものに誠実であったなら、その先生から得られるものは計り知れなくあっただろう。
どんなに損をしたことだろう。
今思い起こすと、本当にたくさん遠回りをし、損をしてきたと思う。
私は楽観主義者になれない。
いったい何人の才能あるアーティストが潰れてしまったことだろう。
あるものは薬物中毒で廃人になり、あるものは難病を苦に自死し、あるものは精神疾患のため演奏できなくなった。
今わたしがこうして音楽をやれていることは、本当に奇跡なのだと思う。
そして、それはいつでも失う可能性がある。
数ヶ月前、私は軽い脳血栓を患った。
もしMRIを受けるのが数時間遅かったら、もう演奏することが出来なくなっていたかもしれないのだ。
私たちは、今こうして生きていること、音楽がやれていること、そして他の魂たちと、こうして様々な交感をしあっていることは、本当にかけがえのない、奇跡のような出来事なのだ。
それに気づき、その価値の大切さは、様々な経験したからこそ体感することが出来ているのだと思う。
それが価値であるのは、価値であると感じる主体としての魂がそこまで経験を重ね、ようやくそこまで育ったことを意味している。
つまり「価値」とは相対的なものなのだ。
絶対的に存在している価値などないのだ。
ある魂がそれを価値だと感じるからこそ、それは価値なのだ。
若い魂たちが、たとえ私たち古い魂が価値だと感じるリソースやポテンシャルを所有していたとしても、本人たちには所詮わからないことなのだ。
それは、本当に歯痒い思いだが、致し方がないことなのだ。
かれらが成長し、年老いていくに連れ、そのかけがえのない価値に気づくことだろう。
彼らの足取りを、深い祈りと共に、見届けたい。
ウォンウィンツァン