<テンポについて> ウォン・ウィンツァン
<テンポについて>
私はテンポやリズムが悪かったので、随分と長いこと悩んだ。
結局、自分のテンポを持つためには、練習するしか無い。
メトロノームと長いこと格闘した時期があった。
今でもちょっと練習することを怠けていると、途端にリズムやテンポが悪くなる。
なので、今でもメトロノームを相手に練習は必須なんだけど、ちょっと怠け気味かな、、、
テンポの練習の方法は、メトロノームに合わせて四分音符を連打し、メトロノームの音が聴こえなくなるまで続ける。
これがなかなか出来ないのだ。
でも、ある意識状態になると、メトロノームに引き寄せられるように、音が重なってくる。
メトロノーム音と四分音符の連打がひとつになると、世界が変わる。
(アナログ・メトロノームは不正確なので、電子メトロノームをお勧めします。)
この練習方法はあるドラマーから教わった。
彼はテクニシャンではなかったけど、彼のビートは本当にドライブする。
日本では珍しい数少ないミュージシャンで、当時はスタジオでもトップを走っていた。
彼はメトロノームに合わせて4分音符を連打し続けていた。
目から鱗だった。
彼のドライブ感はそんな地道な修練に支えられていた。
以前「音楽の秘密」の投稿で、時間の流れを点ではなく、線で見えるようになると、音楽が生きてくる、みたいなことを書いた。
時間という引っ掛かりがない中空に、どこにどう描いたらいいのか分からない。
テンポというのは、引っ掛かりがない時間の流れに、物差しを当てることなのだ。
あるいは製図をする時に、製図板に時間という製図紙を貼って、メジャーを当てることに似ている。
音楽にとってテンポというのは、製図版のメジャーのような役割があると思う。
でもそれだけに止まらない。
テンポを目安程度にしか考えてない人の音楽は、テンポが生きてこない。
あるいは正確なテンポという考え方も、テンポがもつ恵みの本質を捉えていない。
テンポにこそ音楽の霊が宿る場所なのだ。
テンポが見えたなら、イメージした音が打たれる一点は、まさにその一点しかない。
その一点に打たれた時、それは音霊になって、聴く者の魂に届く一音となる。
以上のことは、もともとテンポが良かったり、リズムが良い人には、無自覚かもしれない。
テンポやリズムが悪い分、それだけに意識を向けるのだと思う。
私は誰とでもセッションするけど、共演者がテンポに対してどんな意識を持っているか、すぐわかる。
テンポに対してずさんな意識しか持っていないミュージシャンとは、また一緒に演奏したいと思いにくい。
あるミュージシャンと一緒に演奏することをお断りすることがあった。
スピリチャル系の方だった。
その時の彼の私への蔑みの眼差しはすごかった。
どうも私は否定性が強く、人を認めようとしない、意識が低い非スピ系に認定されたようだった。
テンポ感覚の違いから、なかなか人と一緒に演奏できないというのも辛いね、、、
でも、テンポが共有されると、それこそグループのサウンドは一つになり、新しい世界が広がる。
そんな至高の音楽を私は何度も体験している。
合奏とは、まさにテンポが一つになることなのだ。
この喜びをもう一度体験したい。
これからもグループを作ったり、合奏したいと思うのだけど、なかなか難しいね、、、
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「テンポは、音楽に魂を込める手がかりだ」という話をした。
最近、ある画家のすてきな抽象画に惹きつけられた。
その抽象画を楽譜に見立てて演奏してみたいと思った。
いわゆるテンポがない音楽、まあ現代音楽的なアプローチをしてみたいと思った。
(抽象画だから、音楽は現代音楽やフリージャズというのも短絡的かもしれないけど、、、)
19歳頃からフリー・ジャズ、テンポのない即興演奏をやってきたので、きっとなにか出来る気がした。
でも最近、そのフリーテンポの感覚がわからなくなってきた。
テンポという手がかりがないところで演奏するのって、実はとっても難しいのかもしれない。
ウォン・ウィンツァン
2021/04/17