<モーリス・ラヴェルに想う>
<モーリス・ラヴェルに想う>

昨日からモーリス・ラヴェルのピアノ曲をたくさん聴いている。
4時半頃、目が冷めちゃったので、それからもずっと聴いている。
もしかしてドビュッシーよりラヴェルの方からの影響が強いかもしれない。
と言っても印象派の曲より、かれ独特の新古典的な雰囲気がすきだ。
実はいわゆる印象派的な曲って、ふわふわして、技巧的で、聴いてい飽きてしまうのだ。
勉強したいので我慢して聴いている感じ、、、
改めてモーリス・ラヴェルの事が知りたくなった。
随分前に人物像を読んだきりで、よく知っているわけじゃなかった。
そしてウィキペディアを読んで、とっても悲しくなった。
幸福な人生とは言えなかった。
色々言われているけど、彼の人生を狂わしたのは戦争体験が大きかったように思う。
過酷な晩年を思うと哀れでならない。
改めてラヴェルの肖像写真を見て、愛おしさがこみ上げてくる。
そして感謝の気持が湧いてくる。
彼の音楽は様々なジャンルに影響を残した。
ジャズ和声はラヴェル抜きには語れない。
ラヴェルを改めて聴こうと思ったきっかけは、先日、小蕪亭コンサートのあと、スタッフの一人が「ウォンさんはラヴェルのあの曲の影響がありますよね」と指摘してくれた。
私は嬉しくなって「そうなんだよ。まだ影響された曲があるんだよ。どの曲だ?」と当てっ子が始まって、話が盛り上がった。
そして、改めて自分がラヴェルに影響されていることを思い出し、長い間聴いていなかったラヴェルのピアノ曲を聴きたくなったのだ。
高校時代、食い入るように何度も何度もラヴェルのピアノ曲を聴いたものだった。
私はお小遣いを叩いて、ワルター・ギーゼキングのドビュッシーとラヴェルのピアノ録音集を買った。
それはモノラル録音のLPでケースに入っていた。
ドビュッシーは5枚組で、ラヴェルのは3枚組だ。
当時、私は目白堂というあの素敵な女性がオーナーのレコード店にあしげく通っていた。
そこで購入したレコードたちが私の音楽の原点だ。
印象派の音楽、近代音楽、現代音楽、ビル・エヴァンス、マイルス・デイヴィス、などなど、、、
音楽を理解していたわけじゃない。
ひたすら背伸びして、聴いていた。
そのような高度な音楽を聴いていることで、ようやく自分の孤独感と劣等感、それに厭世感を直視しないで居られたのかもしれない。
ラヴェルの晩年は痛々しいものだった。
「私の頭の中にはたくさんの音楽が豊かに流れている。それをもっとみんなに聴かせたいのに、もう一文字も曲が書けなくなってしまった」と泣きながら語ったという。
その苦しみはどれほどだったろう。
音楽のイメージが溢れるように沸き起こっているのに、それを表すことが出来ない苦しみ。
さて、ラヴェルの足元にも及ばないけど、私も音楽家の端くれだ。
71歳ももうすぐ終わろうとする年齢で、しっかり老化は始まっている。
とは言え、まだピアノは弾けるし、なんとか元気なことは確かだ。
今頑張らなければ、後はないよな~
40歳ごろから今のような活動を続けてきて、まだなにも成していない気がする。
今までの録音を聴いて、その未熟さに愕然とする。
自分の音の未熟に遭遇すると、穴に入りたくなるような羞恥心に襲われる。
コンサートやライブ配信での演奏は、もう取り返しがきかない。
因果な商売だよね。
それに時々いたたまれないような焦燥感にも襲われる。
この焦燥感はどこからくるものなのかな~~
ある時、心理療法の師匠が「音楽へのモチベーションは下がらない?」
アーティストが幸福になったり、自我的な問題をクリアーした時、創作意欲もなくなると彼は思っていた。
ところがどっこい、焦燥感、欠如感は今でもしっかりある。
ある友人が人生を謳歌しながら「自分はいつでも死ねる」と言う。
確かに、もし今、死ななければならない事になったら、私はそれを受け入れると思う、たぶん、、、、
たとえ何も成せていなくても、この世で成さなければならない事なんか、なにもない。
たとえ、人生にやり残さないようにどんなに頑張っても、必ず未完の行為は残るだろう。
それでも、今、このように生きている以上、自分が最も価値があると思うことをやり切ろうとすることが、生きているというじゃないだろうか。
人生の様々な問題を、ある程度クリアーできた。
バランスのとり方も上手になった。
そろそろ正念場を迎えていると思う。
もちろん慌てても仕方ないし、その時その時の流れや、体力の限界もある。
それでも様々なしがらみなど気にせず、脇見もせずに、音楽に没頭したいという、ある自己投棄願望にそろそろ身を委ねても良いかもしれない、、、
「自己投棄願望」これって何処から来るのかな~~
ウォンウィンツァン
2021-05-17