<アイデンティティーを手放す> 2023/02/27
<アイデンティティーを手放す>
2023/02/27
ピアノ工房からなかなか連絡がこないので、問い合わせたら、全弦交換は完了しているけど、調絃パーツに個数違いが発生して、作業が押してると、、、
そのため納品は3月下旬から4月下旬になると、、、
私的には、よかったかも、、、、
ピアノが帰ってきたら、帰ってきたで、やはり色々やることが増えて、大変になる。
それに、今のライフスタイルをもう少し、いや、もっともっと楽しみたいと思っている。
今のライフスタイルが、自分の心境と一致していて、なんかとっても充実している。
好きなように生きている。
ポタリングして、美味しいスイーツとお茶して、iPadを広げて、kindle読んだり、音楽を聴いたり、物書きしたり、絵を見たり、アマプラ見たり、ソーシャル・ウォッチングもしている。
家族とお食事して、孫娘と戯れあって、美音志くんとセッションして、、、、
その時々に自分がやりたいことをやって、生きている。
(でも、ちゃんと実務仕事はやってるよ。偉いww)
生来的に持っている焦る気持ちや不安な気持ちも、だいぶ軽減している。
もちろん、気になることは色々あるんだけど、だからと言って、どうすることも出来ないし、、、、
長い間、追われるようにして生きてきた。
今まで強いモチベーションに突き動かされて来たとも言えるし、実は自己承認欲求に脅かされていたとも言える。
心の奥底に横たわる喪失を何とか埋めようと、ひたすら追いたてられていたのかも、、、
今でもその喪失は埋められたとは思えない。
でも年齢を重ねて、ようやくその脅迫観念を横に置いて、自分を保つバランス感覚を身につけられたのかもしれない。
喪失を埋めようとして、結局自分を見失うことになった。
随分痛い目にも、遠回りもしてきたよね。
村上春樹が「粉々に割れてしまったお皿と同じだ。
どんなに尽くしても、それはもとどおりにはならない」と書いていた。
さすが小説家、うまい言い方だな~
最近、文章を書くのが好きになってきた。
長い間、文章というものに、どこか忌避する気持ちがあったのだけど、それがだいぶ溶けてきた。
文学の話ができる友人ができたことと、春樹の長編や文学論などを読むようになったせいかな、、、
昨年秋ぐらいから、カラーセラピストの末永蒼生さんと往復書簡の執筆を続けている。
一回の手紙の文字数が1万字を超えてしまうのって、もう手紙じゃない気がするけど、書いててすごく楽しい。
お互いの意識に呼応し、インスピレーションをもらえるので、書きやすいのかもしれない。
その中で「アイデンティティーを手放す」という事をお話しされていた。
それはまさしく自分の今と重なるテーマだったので、嬉しい驚き、、、
ここでは詳しく書かないけど、多分年内中に出版されると思いますので、読んでね。
私にとっては初めての本になります。
私もさまざまな役割を終えて、いろいろなことが手離れてきた。
その分、とっても楽に、幸せに、そして自分らしく生きられるようになってきた
でも、やはり「音楽家」というアイデンティティーはなかなか手放せない。
19歳から演奏活動をし続けてきたわけで、完全に音楽人間だ。
とは言え、音楽との関わり方も、常に同じではなく、その時期によって変容し続けてきた。
以前の文章で「世代特定的」という言い方をしたけど、それは私自身にも当てはまる。
そのことに気づかずに、魂が70代なのに、例えば50代のつもりで演奏しても、それは無理が出てきてしまう。
ピアノがオーバーホールを終えて、私のところに戻ってきたら、もう一度、そして最後の、音楽に向き合うと、どこか意気込んでいたわけだけど、どうも違う気がする。
と云うか、以前のような向き合い方ができると思えない。
正直に言えば、ちょっと重い気分がよぎるのだ。
もういいじゃないか、お前は今まで十分やってきた、もう頑張らなくてもいいじゃないか、辞めてもいいんじゃないか、って、、、
そんな話を美枝子にした。
「以前の、例えば「月の音階」や「青の龍」のレコーディングは、ある魂の条件が揃ったから出来たことなんだよね。
それは音楽的な成長のある時期に可能だった。
311があったり、音楽のインスピレーションをもたらしてくれた出会いがあったり、そしてスピリチュアルな回路が開いたり、そして何らかの資格が宇宙から与えられたり、そういう自分ではどうすることもできない条件が重なり合って、初めて可能になったんだよ。
でももう、それが再びやってくると、あまり感じられない」と、、、
美枝子はちょっと考えてから
「あなたがどう考えようとも、ピアノの前に座って音を出せば、紛れもないあなたのエッセンスが、自然に出てるよ、、、」
その言葉を自分が受け止め、肝に落ちるのを、何か不思議に遠くから見ているような気がした。
そうなのだと思う。
美枝子の言葉に勇気づけられている自分にちょっと照れる。
自分はあの頃とはもう違うし、もうあの頃には戻れないし、戻る必要もない。
私は「自分の音楽」というものをなぞろうとしていたのだ。
音楽家としてのアイデンティティーに拘泥してた自分に気づいた。
もうそれを手放す時期に来たんだよ。
それは自分がこの数年間、望んできたことでもあった。
ただ、それを極端に考えすぎていたと思う。
つまり、音楽をやめるか、やめないか、みたいな、、、
その考え方は無理があるし、ちょっと違うよね。
インドの人生観に「四住期」という考え方がある。
人生の理想的な生き方を、学生期、家住期、林住期、遊行期という4つのステージに分けて考える。
吉福さんはそれが好きで何度も話していたな。
そんな簡単な分け方が出来るとはとても思えないけどね。
人生は自然にそれぞれの段階、以前「世代特定的」という言い方をしたけど、何か自然に生きてきた流れ、その人その人に与えられた、宇宙的なプログラムというものがある。
それを何か自分の中に「こうあるべき」とか「アイデンティティー」とかいうものに囚われていると、無理な生き方をすることになる。
つまり、その人がその人らしい生き方は、その世代、その時期で、当たり前だけど、変化し続けている。
それは、不思議に何か、段階が変わったり、ステップが変わったりする。
目に見えない境界線があるんだよね。
人はその成長のプロセスで、アイデンティティーなるものを追い求める時期がある。
でも、ある段階に来たら、それを手放すタイミングが自然にくるのだ。
トランスパーソナル心理学の論理家、ケン・ウィルバーはパーソナリティーの成長を三段階に分けた。
曰く、プリ・パーソナル(自我が未熟な段階)、パーソナル(自我が確立した段階)、そしてポスト・パーソナル(自我を手放す段階)
これはスピリチャルな覚醒が、自我というものにどのような影響をもたらし、どのような問題があるのかを分析的に述べたもので、当時、目からうろこ的な知識だった。
勿論、アイデンティティーという言葉と、パーソナルと自我、それぞれの言葉はちょっと微妙に違うと思うし、ちょっと大雑把すぎる分け方だ。
人の成長、あるいはプロセスは、誰一人として同じ道を歩まないし、カテゴライズすることも、区分けすることも出来ない。
なので、本当に人それぞれの成長、あるいはプロセスなのだ。
それでも人生を俯瞰するとき、それぞれの視点は、とても役に立つ。
自分の立ち位置に合点したりする。
吉福さんは晩年、成長という言葉が嫌いになって、トランジション(移行)という言葉を多用するようになった。
成長という言葉には、色んな意味が付加されて、人がたどる時間的な、段階的なプロセスを的確に言えてるとは言えない。
といってもトランジションという言葉も、私にはどうもしっくりこないけどね。
いま、古いスタンダードジャズの練習が楽しい。
若い頃には出来なかったジャズだ。
美音志くんとのセッションが楽しい。
先月、ラテンシンガー、寿永アリサさんとセッションして、めちゃ楽しかった。
アリサの親譲りのあの突き抜けるようなラテン魂がとても私には心地よかった。
ラテンとジャズがやりたくなった。
やっぱり音楽は、楽しくなくっちゃね!!!
この歳になって、ようやく楽しめるようになったのかな、、、
どなたかジャムセッションがあったら呼んでね~\(^o^)/