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<人生の選択、、、>

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一週間ほど前、私は激しい不安に襲われた。

ジッとしていると、恐れが吹き上がって、居たたまれなくなるのだ。

まるで怯えた子供のようになって、奥さんのベッドに潜り込んだ。www

今なら照れながらも笑って開示できるけど、その時は、本当に怖かったのだ。


何が怖かったのだろう?

自分の選択は、もしかして自分たちを不幸にするのではないか、、、

何か大きなものを失うことになるのではないか、、、

未来に対する恐れや怯えなのだろう。


不安や怖れは、何らかのサインなのかもしれない。

違和感や不安を無視して、強がって、

あたかも勇気があるかのような振る舞うのは、

自分があるべき姿、あるべき選択を放棄することかもしれない。

選択に不具合があるかもしれないのだ。

仏教で言う「自灯明、法灯明」を教える内なる声は、

時に不安や怖れである場合がある。


私たちは大きな宇宙的な流れに乗って生きている。

それは例えば、父や母の子であり、この時代に生き、

子供を授かり、家族とともにこの国のこの場所に生きていること、、、、

そして父や母や妹が旅立ったこと、、、

いつか私たちも旅立つこと、、、

そのような運命的なことだ。


そんな大きな流れに乗りながらも、同時に、

その都度その都度、選択を迫られている事でもある。

それは例えば、音楽を選択し、美枝子さんと一緒になったことや、

さとわミュージックを立ち上げたこと、

大きなピアノを購入こともそうだ。

それらは、個人的な選択である。

しかしながら、振り返って見るならば、やはりそれらも、

何らかの采配によって、選択させられたのだろうと感じてしまうのだ。



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1450万円のピアノを購入する時も、

私は大きな不安に襲われていた。

そのピアノは自分が求めているピアノなのかどうか?

その頃ピアノのことなど、なにも解っていなかった。

そのピアノを自分が弾きこなせるのか?

演奏技術など無かったのだ。

そのピアノが録音に使えるのか?

録音技術もなかったのだ。

自分の音楽に自信があるわけではなかった。

追い求めている音楽の高みを、いつも実現できているわけではなかった。

分不相応な高価なピアノを買ってしまったのではないか、、、、

著名なクラシックピアニストなら、

大きなフルコンサートピアノを自宅に持っても当然だろうけど、

私のような技術のないピアニストには釣り合わないのではないのか、、、


でも録音に耐えうるピアノを購入する以外に、私には選択肢がなかった。

演奏技術のない私が、スタジオという特殊な場所で、

限られた時間内で、良いレコーディングが出来ると思えなかったのだ。

自分の音楽を活かしめるためには、その選択しか無かった。

ピアノを購入しないということは、己の可能性を捨てることになる。

どんなに不安で恐れがあっても、それは必然的な選択だったのだ。

それを判りながらも、

それでも怯んでいる私を後押ししてくれたのが寺山心一翁さんや、

「アルケミスト」を送ってくれた山川夫妻だった。

そして何よりも親父と美枝子さんのサポートによって、

ピアノを購入することが出来た。


選択の基準とはなにか、

今までの自分を振り返って、

言えることは「己を活かしめる」ということだと思う。

自分自身が輝く方向はどちらか、ということのように思う。


私が不安に襲われたのは、

それを放棄しようとしていたからに他ならない。

私は守りに入っていた。

失うことを恐れていた。

その選択によって、不幸になるかもしれないという恐れだ。

消極性こそが不安の元凶だったのだ。

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自分自身を輝かせるための積極性、

それこそが不安症からの脱却の処方箋なのだろう。

その選択によって、何かを失うこともあるかもしれない。

だが、それも一つの答えなのだろう。

また一つの選択は、他の選択の放棄でもあるのだから、

他の生き方を失うことでもあるのだ。

どのみち一つの選択とは、他の選択を失うことなのだ。

ならば己が輝く方向へ、選択すべきなのだろう。


不安や怖れに向き合い、それらの原因を見定め、

目をそらさずに居れば、自ずと路は見えてくる。

他の選択肢が、本当に己が、或いは宇宙が望んでいることなのか、

しっかり見極めること。

それが自灯明・法灯明ということだ。

たとえ恐れがあっても、積極性を失わなければ、克服できることなのだ。


そして、いつか自分の人生を振り返って、

その時その時の選択は、

そのようにしか有り得ない選択だったと気づくのだろうか。

SF映画「メッセージ」は、未来を予知してしまった主人公が、

それでも定められた、その運命を生き抜くということがテーマだった。

私たちは基本的に未来を予知することは出来ない。

(占星術や予言は、大雑把過ぎるし、

無自覚にそれに従うことは、

選択の自己責任を放棄することにほかならない)

それでも、未来の自分から過去である現在を振り返って、

その選択が悔いのないものなのか、どうか、

私達はもうすでに知っていることなのだと思う。


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制作:ウォン美枝子

<自己変革とソマティック>

最近、自分を変えたいけど、なかなか変えられない、という方に何人かFBFで知りました。
ネット上に自己変革に関する情報にあふれているよね。
まあ、大抵は企業の中で成功するための自己開発セミナー系だけど、、、
それだけ自己変革を望む人が多いんだろうな〜〜

かく言うわたしの人生を振り返ると、20代30代って自己変革できずに、悶々としていたな〜
その頃の方法は言葉や考え方、思想で自分を変えようと思っていた。
だからやたら本を読んだな〜
大体は思想書だった。
吉本隆明、埴谷雄高、蓮實重彦、などなど、、、
でも、全部ダメだった。
言葉や思考、思想では自己変革できないと身をもって分かったのは、もうすぐ40歳になるって時だった。
随分と打ちのめされたものだったですよ。

そんな時に出会ったのが、瞑想でした。
いや〜すごく抵抗感ありましたよ。
今まで論理的に自己改革をしようとした人間が、突然、非論理的な世界に、、、、
合理的思考では理解できない世界に突入しようと言うんだから、、、
でも、後ろがない、相当追い詰められている状態だったから、、、
このままだったら、残された道は人生やめることだったからね。
飛び込みましたよ。
ジャンプ、それは飛翔だったと思う。

そうやってわたしの新たな人生が始まったわけですね。
その後も様々な自己変革のチャンスに恵まれ、自己変革し続けた。
吉福伸逸さんと言うセラピストに出会ったのも決定的だった。
自己変革の楽しさと言うか、自分が日々変わっていくことの喜びに溢れましたね。
今は自由で、豊かで、生きてるって感覚を持っている。
音楽も成就し、つまり夢が叶ったわけですね。

さて、自分の変革がどんな時に起きているか、振り返ると共通していることがあります。
それは瞑想にしろ、サイコセラピーにしろ、それは優れて<身体的>であったと言うことなんです。
瞑想も、吉福メソッドも、どちらも身体にアプローチするメソッドだった。

最近、と言うか、もうだいぶ経ってるけど、心理療法の世界では「ソマティック」という言葉が流行っています。
ソマティックとは身体性のこと。
トラウマや心の問題は、どうも神経系統に刻印されているらしい、と言うことが判ってきました。
自律神経、交感神経や副交感神経、迷走神経とかですね。
神経系統にトラウマや神経症などの問題が焼き付いている。

なので、言葉や認識面のアプローチや、情動の開放を何度やっても、また同じことの繰り返しをしてしまう。
言葉で解ってても、身体が変わらない。
感情を何度開放し、大泣きしても、またその場面になれば同じ様になってしまう。
それは当然といえば当然なんですね。
神経系統のトラウマはまだ解消されていない。

そこで心理療法の世界では今一番注目されているのが「心身心理学」(ソマティック・サイコロジー)なんですね。
なので、最近の心理療法のネイミングが、やたら「ソマティック」が多いwww
でも、そのようなネイミングがなくてもソマティックなアプローチはいろいろあります。
瞑想もそうだし、吉福伸逸氏の「体験的グループセラピー」も身体的、ソマティックなものだった。
例えば運動でもいいわけです。
吉福さんは私達に「激しい運動がいいんだよ」と口を酸っぱくしていっていました。
彼はサーフィンを薦めていた。

マラソンでもいいんです。
三ヶ月でフルマラソンが出来るようになるそうです。
毎日少しずつ距離を伸ばしていって、約三ヶ月後には、、、
細胞の新陳代謝が正常であれば身体は三ヶ月で新しく生まれ変わるそうですが、関係あるのかな、、、

我が愛妻は五体投地(チベット密教の行法)を、毎日少しづつ増やし、三ヶ月後に、一日かけてなんと3000回もやったのです。
私は本当に心配しましたが、本人はケロッとしています。
「なんか悟るかと思ったのに、何もなかった」と本人は言っていますが、いやいや、ビフォーアフターの違いは私が一番良く知っています。www

さて、身体的アプローチだけで良いとは私は思いません。
認知行動療法的アプローチや、情動の開放アプローチは、やはり必ず必要だと思います。
身体的にトラウマが解消されても、考え方が以前と同じではしょうがない。
マラソン選手が全員開放されているなんてことはないですからね、、、

さて、皆さんの自己変革の旅を楽しんでほしいと思っています。
ご都合主義で自己変革は出来ないことは確かですが、そんなに大変なことでもないと、振り返ると思います。
必要なのはジャンプ、飛翔する勇気です。
では、ボンボヤージ!!!

http://integralsomatics.jp/iweb1/somatikku_xin_li_xue.html

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<乖離からリアリティーへ、自灯明法灯明>

人間は常になにかを感じ、考えている。
「感じること」や「考えること」は高速度に頭脳を横切っている。
それを捉えるのは難しい。
なぜなら、人は何を感じているのか、なにを考えているのか、知りたいとは思わないからだ。
魂が感じていること、考えていることは、ほとんどがアイデンティティーの揺らぎを起こす。
だから、自分自身を知ること、自覚することがとっても難しい。
違和感や不快な考えや感覚だけでなく、心地よいと思うものも拒否することが多い。

でも魂は嘘をつかない。
嘘をつくことが出来ない。
だから魂が感じたり、考えたりすることは、自己イメージを揺るがしてしまうのだ。
はっきり言えば、ほとんどの人が自分に嘘をついて生きている。
私たち人間はそのように育てられてきたのだ。
家庭や学校、社会からの圧力によって、自分に向き合わないように訓練されている。
あるいは、トラウマなど、心理的外傷によって、自己防御が働き、
魂が感じたり、考えたりしていることを封印してしまうのだ。

だが、そのような生き方は、自分自身が自分自身に重なる感覚を持つことが出来ない。
心理学では「乖離」と言う。
それが酷くなると「解離性人格障害」と言われたりする。

私は長い間、自分が生きていると言う感覚を持つことが出来なかった。
何をやっても、自分が行動している感覚がないのだ。
でも、今、自分が何をやっても、どんなにつまらない行動でも、
それは自分がやっている感覚を持つことが出来ている。
行為している自分がいる。
私は命を生きていると言う感覚は、本当に掛け替えがない、素晴らしい感覚だ。
幸福だと思う。

最近、私たちの生活に大きな波が押し寄せている。
初めての経験でもあり、事象の大きさに、圧倒され、飲み込まれそうになっている。
その事象に流されることによって、これからの人生が苦しいものにならないとも限らない。
でも、ちゃんと自分に向かい、感じていること、考えていること、望んでいることをしっかり自覚し、家族たちとも共有することによって、本当に私たちが求めていることがなんなのか、しっかり見極めることが出来ている。
家族たちと共有することで、理解も結束も深まっている。
事象の激しさに振り回されることなく、これからも一つ一つを乗り越えていけると思う。

「自灯明 法灯明」とは、、、
「自」と「法」は同じことのように思う、、、
宇宙的ことわり(法)の現れとしての自=魂だから
魂が感じていること、
魂が考えていることに耳を傾け、
そして見極める叡智によって、
その理由や根拠を理解し、
現実の次元に照らし合わせながら、
実際に発言し、行動すること、、、

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<自分語りって、、、>

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「問はず語り」とか「自分語り」という言葉があるが、

どんな人にも自分のことを語りたい気持ちって、フツフツとあると思う。

まあ、それが強い人と、それほどでない人もいるけど、、、


私の場合は、語りたいと思う時と、沈黙している時と、

その時その時、その時期その時期で、気分なんだよね。

自分のことを無性に語りたいときもある。

誰でもいいから聞いて欲しい。

FBやツイッターで、ともかく書いちゃう。


なにも語りたいとは思わない時もある。

そんな時は、語ることすら思いもつかない。

静かなんだけど、でも自分に無関心になっているということかもしれない、、、


自分語りをしたがる人を、世の中的には、承認願望が強い人、

自意識が強い人と見られがちだだよね。

自分語りがくどい人、どうでもいい内容の語りが続く人って、やっぱりウザがられる。

ナルシスティックに、自己憐憫や、自己顕示でいっぱいの人も多い。


でも、自分のことをウォッチングしている人たちもいて、そういうひとの「自分語り」は面白い。

きちんと自分に向き合っている語りは、共感を呼ぶことも多い。

ある一人のひとの感受性は、そのひと個人だけのものじゃない。

ひとりの問題は、だいたい他の人の問題に置き換えることができるから、、、


ある人に「ウォンさんは自分のことをオープンに語れて、羨ましい」と言われたことがある。

そうかもしれないけど、自分ではそうでもないと思っている。

私にも恐れがあるよ。

本当にオープンに語って、理解されるとは、あまり思っていない。

ちゃんと人に受け入れやすいことを、理解されやすい言葉で、共感を呼ぶように、したたかに語っている。


こんなことを言うと「もっと無防備に、誤解されることを恐れずに、もっともっとオープンに語ればいいのに」と忠告してくる人がいたりする。

「オープンに語れないのは自分を信じてないからだ~」とかね、、、

だからオープンになれないんだけどね、、、って人のせいにする私、、、www


実はオープンになりたくないのかも。

秘めるものがある方が、人間として奥行きあっていいじゃない、、、www


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<地下500m、10万年のメタフォー>
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今日は、地下500mまで潜ってきました。
瑞浪超深地層研究所です。
つまり、放射性廃棄物を地層処理するための技術ノウハウを研究するところです。
田口ランディさんの企画で、所謂アーティスト系の人々が集まりました。
アーサー・ビナードさんもいらっしゃって、ディスカッションでは色々発言されていました。
この研究所の視察は、どなたでも出来ます。
https://www.jaea.go.jp/04/tono/kengaku/kengaku.html
放射性廃棄物の処理に関する技術的な問題をお知りになりたい方は、是非、直接申し込んで、現地をご覧になってください。。
丁寧に、いろいろ説明してくれます。

さて、私が疑問に思ったことだけをここに書かせていただきます。
(1)原発に使われる濃縮ウランのうち、95%は再利用され、5%が放射性廃棄物とし処分される。
使用済み燃料は、現在の総量、1.8万トン!
その5%は、埋葬されるガラス固化体にして2万5千本相当に当たる。
現在計画されている地下処分場(場所未定)には4万本が埋葬可能だと言う。
そのコストは3.7兆円で、それは各電力会社、つまり私達が払う電気代金で賄われる。
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さて残りの95%が再処理されて、MOX燃料となる。
でも、一回しか再利用されない。
という事は、やはり5%だけじゃないと思うけど、、、
因みに再処理された場合、その容量は1/12になると言う。
ん〜〜4万本、3.7兆円で終わるとは思いにくい、、、
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(2)地層処理の研究開発、事業運営は「原子力発電環境整備機構(NUMO)」がやっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/原子力発電環境整備機構
この組織のメンバーは、各電力会社から派遣されていて、つまりは原発推進せねばならない人たちの集まりなのだ。
組織の職員が私にバリバリの原発推進言説を繰り広げていた。
311以降、原発の是非を散々議論してきた私としては、もういいよって感じだった。
彼に「組織の職員の中に、反原発を言う人はいないのか?」と聞いてみた。
首を傾げていた、、、
原発を再稼働させることが出来なければ、それらは全部負債になる。
電力会社が倒産すれば、彼等も職を失うのだから、必死かもしれない。

でも、どうなんだろう。
放射性廃棄物の処理を彼らに任せていいのだろうか?
もっと中立的な立場にある組織でないと、嘗ての原子力保安庁のように、どうしょうもなくなるのでは、という懸念が私にはある。
彼等が必死だけに、、、
一応、原子力規制委員会の検査、監査があるとは言うが、、、

NUMOの技術担当者の説明には誠意を感じられて、好感をもった。
しかし、今回の参加者から聞こえてくる声は「不安」であったり「不信」であったり、、、
原発をどうして導入したのか、という「そもそも論」も出てきた。
NUMOがどんなに誠意を持って説明努力をしたとしても、向こうサイドの人間の言葉を、信頼することはなかなか難しい。
私は、中立的な、第三者機関を設けるべきではと思う。
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私が得た結論は「保留」だ、、、
まだ何もかも煮詰まっていないと思う。
電力会社側としては地層処理が決まらないと、再稼働もままならないのだろうか?
だが私たちが、原発を止めることが国レベルで決められない限り、地層処理を許容することは難しい、、、
それも、今回の選挙で決まる。
推進側が政権を取れば、再稼働も始まり、地層処理事業も進む可能性はある、、、
だがまだ地層処理に名乗りを上げる地域はいない。
自分たちの故郷が放射性廃棄物を10万年以上、未来永劫抱えることなんて、許せるはずがない。
処分地が見つかるまで、保留にせざるを得ない、、、
嘗て原発が誘致された時は、べらぼうなお金が地域にばらまかれた。
でも311以降、それも難しくなったのかもしれない。
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「そもそも論」で私も憤懣が湧いてくる。
原発問題は今でも責任が有耶無耶だ、、、
でも放射性廃棄物の処理は、嫌がおうにも国民全体の問題になってしまった。
ランディが言うように、国民レベルの議論が必要になっていると、私も思う。
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<幸福の条件>
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パパさん語録に「三つの幸福の条件」と言うのがある。
「健康第一、少なくてもいい必要十分なお金、汚くても我が家」
確かに幸福になるために、このような具体的な条件は必要かもしれない。
でも、パパさんが、この「三つの幸福の条件」を唱える時、あまり幸福そうには見えなかった。
つまり、不幸なとき、その条件が満たされていることを確認して、自分は幸福なはずだと言い聞かせているのだった。

しかし晩年になるに連れ、このパパさん語録は影を潜めていく。
つまり家族との関係性を回復し、信頼し、昔のルサンチマンや怒りも解消され、家族以外との関係性も増えていくに従って、どんどん幸福になっていったのだと思う。。
最後の数ヶ月は老人施設で介護士たちや同居人たちや、そして私達家族も毎日通ってきてくれる。
今年の4月頃は「ここは天国です。長生きしたかったらここに住めばいい」とまで言っていた。
そして5月には天国に旅立ったけど、最期は安らかで、本当に天国に行ったんだと、残された家族たち誰もがそう感じた。

さて、幸福の条件とはなんだろう?
健康やお金や家も大切だけど、結局心の健康の問題なんだと思う。
「心の健康」すなわち「健全な自我の確立」が一番大事なことなんじゃないだろうか。
どんなに具体的な良い条件を揃えても、自分自身の問題に向かわない限り、幸福になんかになれないんだよ。
幸福な人は友人が多いと言うけど、自分自身の問題をクリヤーしない限り、人間関係が良くなるわけもない。
無意識領域に巣食っている、歪んだ魂を持ったまま、ひとは幸福にはなれない。
「自分に直面すること」それこそが幸福への一番の近道だと、私は思うな、、、
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<音楽を教えるということ>
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  「音楽を教える」ことってなんだろうな〜?と、ここ数年、考えることが多い。
自分が獲得したものを、なんとか伝えたいと思い始めた。
多分それって年齢的なものなんだろうと思うね。
歳をとると、本能的に何かを次世代に伝えたいと思うものなのかもしれない。
とは言え、まとまって考えているわけじゃないし、ノウハウがあるわけでもない。

 それに、その「獲得したもの」とか「伝えたいもの」ってなんなの?って話だけど、あまりに茫漠としていてる。
所謂、音楽教育、演奏の優れたカリキュラムなど、いくらでもあるし、それを私は教えたいわけじゃない。
優れた先生は、きっと沢山いる。

 昨年ぐらいから「Primal Music Meditation」というワークショップを始めた。
「音の存在力」と言うものを伝えたい。
音楽が聴く人の魂に伝わるということがどういうことなのか、何とか伝えたいと思った。
でも、どうなんだろう?
考え方と、開発したメソッドを伝えることって出来るだろうか?
その考え方も抽象度が高く、伝わりにくい。
メソッドはあまりにシンプルすぎて、自分でも呆れてしまう。
それに、音楽のエッセンスを自分のものにして、音として表現出来るようになるには、もうその人その人の魂に賭けるしかない。
まあ、それで良いんだよね。
それしか私には出来ないし、、、

 私の音楽スタイルを自分のものにし得たのは、今のところ息子かもしれない。
勿論、本人は弟子になったつもりもないし、私も先生になったつもりはない。
彼に何かを直接的に教えるような時間は、殆どなかったと思う。
でも、何よりも私という音楽家の環境にいた。
居ざるを得なかった、、、
音楽家のライフスタイルのど真ん中に居合わせてしまったのだ。

 彼は私が30代後半にようやく獲得した音楽性を、高校生の後半には表現できていた。
すごい話だと思うかもしれないけど、環境というもののチカラなのだ。
子どもが母親の話し方を聞いて言葉を覚えるように、彼は私の音楽環境の中で、それを母語として獲得したのだ。

 そして20代前半にリリースしたCDは、彼に言わせると、私の音楽の再現なのだという。
彼は自分の音楽ではなく、私の音楽を実現したのだ。
なるほどと思う。
「守破離」と言う言葉がある。
それは、日本での茶道、武道、芸術等における師弟関係のあり方の一つを表している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/守破離
この古典的なメジャーを当てはめるなら、彼は「守」を実現したことになる。
そして、いま彼は「守破離」の「破」の段階にいるように見える。

 インド音楽などの師弟関係は、もうそれこそグルと出家の関係だ。
グルの日常のアレコレの面倒を見ながら、グルの演奏を見よう見まねで、自分のものにしていく。
つまり日常的に一緒に居て、芸を盗むのだ。
そんな師弟関係は、もうないよね。

 私には音楽的環境はなかった。
でも音楽を教えてくれた人はいた。
まずピアノの先生。
小学生に入った頃、情緒教育でピアノ教室に通わされた。
嫌で嫌でしょうがなかった。
先生もそんな子供に教えたいとは思わないだろうね。
数年で止めてしまった。

 ある時、再びピアノを習いたいと思った。
高校年の頃だったと思う。
その先生の所に私は出向いていった。
その時、その先生からひどく冷たいあしらいを受けた。
教える気がないなら、そう言えばよかったのに、、、、
その後、私は独学でピアノの練習を始めた。

 音楽活動を始めたある時、その先生にご縁のある方にお会いする機会があった。
そして「先生があなたに謝罪したいと仰ってたのよ」と伝えてくれた。
その先生が他界した後の話だった。

 私はピアノの先生からひどい扱いをされながら、でも止めなかった。
それは、根性とかじゃなくって、やはり運命的のものだったのだろう。
私は今、その先生に感謝している。
彼女は私の最初の音楽の先生なのだから、、、

 今日までに、私が音楽を続けるプロセスで、いったいどれだけネガティブなエピソードがあることだろう。
あまりに多くて、思い出せない、www
そうそう、ある時、同級生に「まだ音楽なんかやってるの?」と言われたこともある。www

 それでも私には希望が見えていた。
音楽のビジョンを見ていたんだ。
だから続けられたのだと思う。
でも、30代の中頃、それも色あせて、もう息たえだえになった。
求めても求めも、それは遠のいていくばかりだった。
音楽をもうこれ以上続けられると思えなかった。
思い起こすと、その頃が一番シンドかったかな。
それを乗り越えられたのは、瞑想のおかげだと言っていい。
瞑想に出会わなかったら、どうなっていただろう。

 さて、音楽を学ぶとはどういうことだろうか。
どんな素晴らしい先生に出会おうとも、結局は自分次第、、、
「独学」しかないと思う。
一番肝心なものは誰も教えてくれない。
どんなに遠回りしようとも、
どんなに道に迷うとも、
どんなに遅かろうとも、
自分でやるしか無いと思う。
はっきり言って「シンドイ」と思うよ。
楽な道は、やっぱり無いんだよね。
売れようとも、売れなくとも、シンドイと思う。
よほど好きじゃないとやれない。
或いは運命的なものもあると思う。
スピリチャルな言い方で言えば、「魂の選択」
もっと超越的な言い方で言えば「すべて宇宙の計らい」www
まあ、頑張って欲しいけど、音楽家として生き残れるの人は、そう多くはない。
それでも音楽をやりたいかどうかだけだと思う。
音楽の旅は祝福されている。
ボンボヤージ!!!
音楽は至福だ!!
よい旅を、心から祈っています。

ウォンウィンツァン
2017-09-05
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<春分の日、朝日カルチャーセンターでのトーク&コンサート>
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 今日、春分の日は、新宿住友ビル10階にある、朝日カルチャーセンターでトーク&コンサートでした。
アサカルは震災直後の横浜教室から、今回で6回目になります。
教室いっぱいの受講生たちには小学生から80歳以上のご高齢の方まで、70名ぐらいの方たちが受講してくださいました。
講演では、主に映像と音楽制作のお話をさせていただきました。
また自分のナショナル・アイデンティティーに関するお話と「サトワの夢」の演奏。
また軽い初歩的な瞑想導入から即興演奏をさせていただきました。
あっという間の2時間、充実した内容だったと思います。

 それと瞑想に関するお話で、「皆さんは感動というものを体験したことが有りますか?」という質問に、殆どの人が挙手してくれました。
「感動こそが、もっともスピリチャルで、超越的な体験なのです。
瞑想は、感動の源、つまりは魂にたどり着くためのノウハウです。
魂から発する音楽は、聴く人の感動の源、つまりは聴く人の魂に触れることが出来る、というのが私のビリーフです。」というようなお話をさせていただきました。

 とっても驚いた講演後のエピソード。
受講してくださったご家族がいて、私の即興のCD「ビハインド・ザ・フォーレスト」の中の「雲と影絵」を、11歳の女の子が、自分で耳コピーして演奏してくださいました。
即興曲ですから、楽譜に記譜できないようなタイミングがいっぱいです。
和音的にも結構高度なものが入っています。
それなのにシッカリコピーして、小さな子供の手で演奏してくれました。
感動でした。
どんなに才能があったとしても、相当努力しないと演奏できない曲です。
自分の音楽や演奏が、11歳の小さな魂に届いている。
いい加減な気持ちで音楽できないな〜と自戒するひと時でも有りました。
彼女の将来が楽しみ。
ぜひ存分に音楽を楽しんでほしいものです。
彼女の演奏する姿はとっても印象度が高いものでした。

2017-03-20
ウォン・ウィンツァン
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<霊的な感受性について>
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 霊的な感受性は、人間なら、殆どの人が持っている。
そんな訳ない、と思うだろうか。
神秘体験や霊的な体験をしている時、大脳辺縁系が活性化することが知られている。
つまり大脳辺縁系を持っている人なら、霊的感受性があるはずだ、というのは根拠になるだろうか。
我が師匠、吉福伸逸氏は「霊的体験をしないということは、その人に何らかの抑圧があると考えていいと思う」と断言していた。
不可解なものへの恐れや不安、あるいは科学合理主義に拘泥している人は、霊的体験に対してブロックがあるのだろうか。

 人間には得手不得手があるのだから、霊的な感受性が強い人もいれば弱い人もいる。
足に障害がなければ、どんな人も走れるけど、100mを10秒で走れる人は殆どいない。
霊的な感受性も同じようなことが言える。

 ただ、100mを10秒で走れる人が、人格的に良い人かどうかは別の問題であるように、霊的感受性が高い人が、霊格が高いなんてまずありえない。
ココらへんが大きな誤解を呼んでいる。
むしろ霊的感受性の高さが仇になって、霊的エリート主義というか、選民意識が強く、とんでもないグルやヒーラーになったりしているのを、巷でよく見聞きすることだ。
私のまわりにはクンダリニーが起きちゃった女性たちや、スプーンをグニャグニャに曲げてしまうサイキック女子が、沢山いる。
何故か男子が少ないけど、、、
彼らはみな普通の人達だ。

 100mを20秒で走る人が、日々の修練によって19秒に挑戦する姿は美しい。
霊的感受性や霊能力をアップさせるために、それなりの努力をすることも、それはそれで良いとは思う。
日常生活や人間関係に支障をきたさないのなら、と言う条件はあるが、、、
ただ、それが霊格のアップのために行っているとするなら、それはお門違いだ。
霊格と霊能力は、はっきり全く別のものだ。

 霊格とはなんだろう?
私もよく解らない。
この人は霊格が高いな〜と感じる人に時々出会う。
感じるということと、解かるということは別のことだ。
その方の霊格の根拠を言葉にすることは出来ない。

 ただ、絶対言えることは、霊格の問題の前に、人格の問題があるということ。
人格の成長を蔑ろにして、霊格の成長は、まず無い。
人格的問題をクリアーできてない人が、あたかも霊性が高いかのような振る舞いは、滑稽だ。
とは言え「人格とはどういうこと?」となると、また違う議論が必要になる。

 さて、幼い頃から子供の才能を見出した親が、その子の成長のために環境を整えてあげようとするのは自然なことだ。
運動能力の優れた子は、環境や適切な指導者によって、100mを10秒で走れる子になるかもしれない。

 では霊的感受性が強い子に関してはどうだろう?
霊的感受性は年令に関係なく、突然開花することがある。
運動能力への社会や世間の理解というものはあるが、霊的なものの社会的理解は、日本には殆ど無い。
子どもの頃に神秘体験をした子どもが、その後、困難な人生を歩まなくてはならなかったという話は、よく聞く。
両親にも社会にも、そのような子ども達を受け入れられるような能力も知識も、今の日本には用意されていない。
沖縄にはノロの伝統があるけど、霊的伝統の神秘主義には、語弊を恐れず言えば、迷妄が濃厚にある。
このことはまた別に議論したい。

 私たちはダライ・ラマやクリシナムルティのような、霊的な英才教育によって成就した指導者を知っている。
しかしそれは、本当に稀なこと、稀有なことなのだ。
たとえ親に霊性への理解があっても、その子が現実社会に住む以上、かなり難しい。
少なくともその子を霊的指導者に育てようとなどはしないほうが良い。
自分の子供を江原啓之みたいな霊能力者にしたいと思う親もいるかもしれないけど、、、、

 運動能力のある子どもをアスリートに育てようとするとしても、その子の人格的な成長も蔑ろには出来ない。
100mを10秒で走れたとしても、それはそれでしかない。
霊的感受性も、それでしかない。
100mを10秒で走ることが出来ることは、その人の存在力を高めてくるように、霊的感受性は、その人の人生を豊かにするだろう。
しかし、それ以上でもそれ以下でもない。
彼の、そして私達の人生の殆どは、社会で生きていくことなのだ。

 子供の霊能力を大事にすることは必要だけど、それを過剰に子供に求めるのは、その子にとって難しい状況にさせてしまう。
子どもは親が求めていることを察知し、無意識にそれに答えようとする存在だ。
親から多くの愛を獲得するために、そのように振る舞う存在なのだ。
子どもの親への忖度能力は、子どもが生き延びるために必要なことなのだけど、、、
そのことによって子供の能力が高まることもあるとは思う。
でも、親がターゲットになっているので、自然な能力の発育にはなかなかなりにくい。
それは霊能力だけに限らない。
すべての能力の成長を促す場合によく起こることだ。
殆どの場合、その子の可能性とは違う方向の能力を親は求めている。

 自然な成長、と言う言葉は、言うのは簡単だけど、やはりとっても難しい。
何れにせよ、その子の成長を見守りながら、過剰ではなく、また、過少でもなく、その子にとって、最も適した、健全な環境を用意することは、至難の業だと思うが、親として、子どもにやってあげたいことだとは思う。

 さて、どんな人も必ず霊的な感受性を持ち合わせている、と書いた。
そのことを最も顕著に体験することになるのが、死というものが身近になったときだ。
死に近づくと、自我が希薄になって、ブロックが取れるのだろうか。
嫌がおうにも霊性が濃密になるのが、死という体験だ。
霊的なことに無知でいると、死に直面して狼狽えることになる。

 35年前、私の母は膵臓がんで他界した。
死の直前、さまざまな霊的体験を繰り返していた。
医者は瀕死の患者がモルヒネなどで、そういう体験するのだと言っていた。
でも、そうではなかった。
あの時、ちゃんと対応できなかったことが残念でならない。
その後、妹や義父を看取ったが、彼らの霊的体験に寄り添えたのは、本当に良かった。
彼らから掛け替えのないプレゼントを与えてもらえた。
実りの深い終末であり、別れだったと思う。
己の終末を、実り多い、豊かな最後にするために、多くの人が霊的な感受性について、健全な知識を持ってくれることを、心から望んでいる。

 人間の終末の霊的体験について、数多い看取りの体験から書かれた、示唆に富んだ文章をここに紹介したい。
是非、読んでほしい本だ。

大切な人の看取り方 デニー・コープ https://www.amazon.co.jp/dp/4864100810/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_BF7YybSVWB8R6 @amazonJPさんから
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<アッキーに思うこと>
「良い子症候群」という造語があります。良い子であることによって愛情を受ける。親から承認されるために良い子になりすぎて、自分自身を失ってしまった子供のままの大人の話です。そんな人は、誰にでも良い人であろうとする。親の言いつけを守りすぎた其の娘は、自分の考え方や心情は希薄で、アイデンティティーも揺らぎやすい。総理大臣夫人ともなれば、彼女に近づきたい、利用したいという人はいくらでもいる。良い子症候群は利用されることによって、永遠に満たされない承認願望を底なし求め続ける。総理夫人というステイタスも承認願望を充分満たさない。もっともっと良い事をして認められたい。八方に良い子であり続けることは、とても難しい。ましてや政治的背景が複雑に入り組んでいる世界に生きていればなおさら。いつか不具合が発生。今まで彼女を利用している人たちからもバッシングが始まる。本人はなぜバッシングされるのか解らない。良いことをやっているのに、なぜ?、、、そして転落が始まる。自分を保つために否認が始まる。なぜこんなに注目されるのか、私にはわからない。だから否認、無視。そうしないと自分が保てない。さて悪いのは彼女だけじゃない。良い子と、良い子を求め、利用する側との共犯関係だから、、、、
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 人は、人から承認されないと生きていけない。この社会は相互承認関係だともいえます。関係性だけでなく、お金や地位、学歴、役職、などなど、自分のアイデンティティーを支えるものならなんでも身につけようとします。でも承認されるためになら、なんでも良いとうわけではありません。その人がその人らしい生き方に対し、周りからの温かい承認こそが、その人を支えるのです。

 私は音楽家ですが、どんな音楽でも認められればよいというわけじゃありません。私が私らしい音楽を提示し、それを受け止めてもらえることが、私への社会からの承認なんです。私らしい音楽が社会の中で少数の人にしか承認されなくとも、です。
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