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<瞑想と坐禅>

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最近、瞑想と坐禅を比べて論じる人が増えている。

これらは別物なので、

比べようもないと思うけど、

似ているところもあるで、

比べたくなるのも仕方がない、、、


瞑想については、

87年から、30年以上、ほぼ毎日やっているので、

まあ、少しは何か、言えることはあるかもしれない。


でも、坐禅は、一向に上手にならないので、

なんとも言えない。

坐禅断食会に参加するようになって、

10年以上は経っている。

二泊三日の間に、約25分の坐禅を15回、

年に3回以上は参加しているので、

それなりの回数になるのだけど、

一向に上手にならない。

時折クリアーな、良い体験になることもあるけど、

ともかく座っているのがキツイ、、、

多動な私は、ジッとしていられない、

足は痛い、痺れてくる、、、


にもかかわらず参加しているのは、

坐禅断食会の後は、

心身ともに浄化されて、

霊的なエッセンスに満たされる。

そして瞑想の体験も深まるのも嬉しい。


私が日々実践している瞑想は、

古代インドから伝わる伝統的なスキルを、

現代の都会人にも実践できるように、

アレンジしたものだ。

ヨーガ・スートラという経典がベースになっていて、

マントラ(真言)を心の中で唱える瞑想法だ。


坐禅に比べると、実にフランクだ。

どんな座り方でもいい。

頭を寄りかかったりしなければ、

足を投げ出して座ってもいい。

だから、どこでだって瞑想できる。

例えば電車の中でも出来るし、、、

雑念もOK、、、

寝ちゃってもOK

努力もいらない、、、


マントラに頼って、

努力しないやり方に、

坐禅を信奉する側から批判的な声を聞くことがある。

マントラは意識を曇らす、とまで言う人もいる。

そういう事を言う人は、

だいたいマントラ瞑想をやったことがないか、

やってもあまり効果を感じなかったからかもしれない。


瞑想は努力をしない。

努力をすると、自然に瞑想状態になるのを妨げて、

間違った意識状態になる可能性がある。


インド人って、生来けっこう合理主義、実際的な気風がある。

霊的体験を深め、至高の意識状態に到達する、

と言う目標に向かって、

最短距離で効果を上げる瞑想法を、

三千年もかけて開発してきた。

それがヴェーダという叡智だ。

求道者たちは

エンライトメントという至高の意識状態になる為に、

ヒマラヤの山奥に籠って、

ひたすら瞑想に励むのだろうか、、、


私は瞑想体験が良かった。

一時は、ひたすら瞑想に明け暮れたことがあった。

体験が良いと、さらに体験を良くしたい。

このまま進めば、インドの経典にあるような、

至高の意識状態になるのでは、と夢見たのだ。


しかしそれは、無謀な試みだった。

瞑想が深くなるにつれ、

意識状態や心身の状態が過剰に鋭敏になり、

日常生活が、普通に過ごせなくなる。

新陳代謝が底をつき、

食べ物にも鋭敏になり、

かなり禁欲的なベジタリアン料理しか食べられなくなり、

体重は極端に減っていく。

一時は40kg以下にまで落ち込んだことがある。


しかしその頃から、瞑想体験を深めることにより、

なんらかの至高の意識状態なること、

「エンライトメント」に到達することに

疑問を持ち始めた。


たしかにすごい体験ではあるけど、

人間は、霊的な存在だけではない、

日常的な、生活人であり、社会人でもあり、

パーソナルな問題も抱えている存在でもある。

瞑想体験がどんなに良くても、

それらを蔑ろにして、

エンライトメントというのは、無理がある。

そう気づいたのは、

オーム真理教事件が起きる前のことだ。


瞑想が危険だと言われる所以は、

体験に飲み込まれてしまうことだろうけど、

ちゃんとプログラム通りやっていれば、

全く問題がない。

日常的に瞑想をやることで、

日々、どれだけ恩恵を預かっているかわからない。


坐禅をする側からは、恩恵のために座るのではない、

と言われそうだ。

効果とか、効用とかを得るために座るのではない。

何も求めない、のが坐禅だ、という考え方だ。


さて、どちらが良いかは、それぞれの考え方や、

感じ方の問題だろうと思うけど、

出来れば、両方とも体験してみると良い。

そして、自分に合う方を選べばいいと思う。

頭で考えて、どうこう言うのでなく、

まずは体験してみることだと思う。


瞑想や坐禅をする事で、

霊性のエッセンスを、

日常生活に注ぎ込むことができる。

霊性のエナジーが、心身の全体に広がるのだ。

すると生きることの意味そのものが変わってくる。


ウォン・ウィンツァン

2018-11-08



(写真はガラス工芸作家、狩野智宏さんの作品「amorphous」)

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by wtwong | 2018-11-08 09:36 | essay

<ファイティング・ポーズ>

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自分はファイティング・ポーズをとっていないと、ダメになるタイプだと思う。

守りに入ると、抑うつや不安、怒りも出て来るんだよね。


私が戦い系になったのは、18か19歳ごろ、何か開き直るキッカケがあったのかもしれない。

中学三年に校内暴力を受けて、その後、3年間の抑圧的で屈折した高校時代を経て、その間、社会ではベトナム戦争、安保闘争など、対立的で戦闘的な雰囲気が醸し出されていた。

テレビから流れるデモ隊と機動隊がぶつかる様を見ながら、冷たく戦慄していた自分を思い出す。

映画「アルジェの戦い」を見たことも、大きな意味を持っていたかもしれない。

世界は、社会は、戦いなんだ、どこかでそう確信し、自己規定したに違いない。


音楽も、人間関係も、ある種緊張した関係性の中で、戦いを挑み続けていたと思う。

瞑想に出会っても、それは癒しではあったと同時に、エンライトメントに挑戦することでもあったし、癒し系の音楽をやっていても、自分に甘える音楽はしたくなかった。

どんなに音楽が優しく聴こえようとも、ある表現の頂きに挑戦するという戦いだった。

吉福伸逸氏に出会って、ワークショップに参加するようになるけど、そこでも私は戦っていたように思う。

父親が仕事を辞め、家にいるようになると、私は彼との関係性の修復という戦いに挑戦したのだと思う。


父が死んで、私はこの歳になって、ようやく親から自立せねばならない所に来た。

今まで自分は自立していると思っていた。

でも、父が他界してから一年以上が過ぎ、私は今まで父親の庇護の元にいたのだということを、思い知らされている。

この歳にもかかわらず、自立のなんたるかを知らなかったのだ。

私は棺にこう書いた。

「パパさん、ありがとう。やっとパパから自立できるね」

私はその時、まだその意味をよく理解していなかったと思う。

もちろん今でもわかっていない。


もう守ってくれる人はいない。

今度は私がパパさんの位置にいるのだ。

そのことで、パパさんのことをいろいろ思い出しながら、ようやく父親のことが理解できるような気がする。

パパさんも戦いの人だった。

そして、最後は私たち家族に心を許し、身を委ね、ファイティン・ポーズを下ろし、天国に旅立った。


さて、私は今、新たな戦いに入ったと思う。

多分、向こう10年が、私の音楽家としての活動ができる限界だと、自己規定しよう。

今、70歳を前にして、自分の音楽にある手応えを持っている。

自分の音楽に確信がある。

歳を重ねて来て、得られたリソースでいっぱいだ。

それらを解放したい。

戦い方も上手くなった。

無駄な戦いはしない。

何よりもその戦いは、感謝と恩返しの戦いだから、、、

私を受け入れてくれた友人たち、そして聞いてくださった人たちへのお返しの最後の活動だから、、、


しかしそれもあと10年だと思う。

精神的にも、肉体的にも、あらゆる意味で、それが私の限界だ。

80歳まで、戦おうと思う、死に物狂いで、、、

途中で生き絶えるかもしれない。

疲弊して、倒れるかもしれない。

その時はその時、、、、


そして、もし、なんとか80歳にたどり着いたなら、

私は自分を許し、手放したい、、、

私は、私自身と世界を手放したい、、、

そして、私と家族と、全てに感謝して、旅立ちたい、、、


ウォンウィンツァン

2018年6月19日


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by wtwong | 2018-06-22 15:01 | essay
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昨日の夕方、古い友人が訪ねてきてくれた。

「ちょうどアメリカから帰国しているので、

ちょっと寄るね」と言うことだった。

久しぶりに会えて、本当に嬉しかった。

何しろ17歳頃の友人だから、、、


私の姉はある高校学校でマリーだった。

その時のピーターとポールがこの二人だった。

もちろんあの当時流行ったフォークグループ「PPM」の

コピーバンドのことだ。

私もそのバンドで遊ばせてもらったのは、

楽しい思い出として今でも残っている。


「ねえ、一緒に与論島に行ったの覚えてる?」

「そうだった~ よく思い出すよ~」

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私が18歳の頃、メンバーの一人が「与論島に行くから一緒に行かないか」と誘ってくれた。

あの頃、与論島は秘境だった。

フェリーに乗るために鹿児島まで電車で行ったと思うけど、どうやってたどり着いたのか全然覚えていない。

フェリーに乗り込んで、なんと台風が来て、私達は大揺れに揺れる船底船室で、ただただひたすら、吐き気をこらえながら、嵐を過ぎ去るのを待った。


一夜明けて与論島に到着すると、そこは別世界だった。

遠くまで続く純白の海岸と、透明な海、限りなく青い空、、、

そして民宿に宿泊し、そこで隣室の女性に秋波を送られたこと、、、

経験のない私はただタジログだけだったけど、、、(汗)

私は篠笛を持っていて、満月の夜、海岸で吹いていた。

ふと気がつくと、周りにゴソゴソ気配がする。

見渡すと、無数の蛇の鱗が、月明かりが鈍く反射している。

「ぎゃ~~」

私は焦ってそこから走り去った、、、

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思い出とはなんだろう?

この懐かしさと、友人に対する想いは、なんだろう?

あれから50年が経った。

年月とともに思い出は、淡いセピア色に輝く、、、

二度とは帰らないあのひと時を、私達は共有している。

それだけで、なにか特別ななにかを感じている。

人生の、最も大切な、なにかを、、、


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by wtwong | 2018-05-29 00:50 | essay

<甦ったコマーシャル時代>

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先週、テレビコマーシャルを作曲していた時代の音源が再生できず、もう二度と聞くことができなくなってしまった、などとブログに書かせていただきました。

「さようならテレビコマーシャル時代」と題して、涙の決別宣言をしたのでした。


ところがなんと、なんと!!!

断食会から帰ってきたら、その間に、息子の美音志君が三日間かけて、なんとか再生させて、記録を蘇らせてくれたのです。

どうやったのか?私にはわからないのですが、ともかくベータービデオデッキを色々操作して、デジタルデータとして再生することが出来たのです。

驚きました。

いや~~これは嬉しかったです。


私が記録してあったのは、デジタル時代になってからの音源だけで、アナログ時代の作品の音源はなかったのですが、それでも嬉しい~


昨夜一晩、なんとなく聴き続けていました。

CMだけでなく、グループのリハーサルや、ピアノソロや、ジャズトリオのリハーサルやら、何やら、、、

それらを聴きながら、懐かしいと言うよりは、あの頃の一生懸命さや、未熟さや、コマーシャル作曲に疲れている感じや、なにかいい音楽をやろうとしている直向きさや、あがいている感じが、強烈に伝わってきて、胸が痛いというか、切ない、、、、

ああ、自分は本当に音楽に魅せられて、音楽に夢を見て、そして右往左往しながらも、やはり今も夢を見続けているんだな~


機会を見て、そんな未熟な音源も、少しずつ、皆さんに聴いてもらえれば嬉しいなと思いました。


この件に関して、ビデオデッキを提供してくれた佐々木泰三さんや、貸してくれようとくださった方たちに、またご心配をおかけした皆さんに感謝と謝罪をさせていただきます。

ありがとう~ そして、お騒がせしました~

そして何よりも、再生努力をしてくれた息子に、心から感謝です。


30代の未熟でも、想いいっぱいの音源が蘇り、その音楽を聞き返すことで、改めて、まだやらねばならない夢、実現したい夢を諦めずに、残りの人生を生き抜こうと思いました。

ありがと~


2018-05-16

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<さようなら、テレビコマーシャル時代よ、、、>


残っていたCM音源

https://youtu.be/SCOz1o-Qpxk

@YouTubeさんから


 15年間分の録音し続けてきた音源が、もう再生できないことが判った。

それなりにショックだけど、失うことって、まあ、そういう事なんだと思う。


 私は20代なかばから、30代の後半まで、テレビコーマーシャルの作曲をやっていた。

月に5本ぐらい、多いときで10本ぐらい作曲していた。なので曲数としては相当な量になると思う。

当時のアーカイブはオープンリールだったりカセットテープだったりで、所謂アナログメディアだ。

それを後生大事に長い間、捨てずに残してきた。


 それらのアナログ音源を、ある時、デジタルに変換することにした。

デジタルなら経年変化による劣化が無いだろうと思った。

当時、テープが癒着したり、カビたり、色々問題が続出していた。

そしてデジタルは劣化しないと、まことしやかに喧伝されて、私もそれを信じた。


 10年分以上あるテレビコマーシャルのアナログ音源をデジタル変換し、元のアナログテープメディアは数年前、破棄した。

あの頃、CDやLP、本や器材など、かなりの勢いで断捨離ししたのだ。

その流れで、使い物にならなくなった大きなテープデッキとアナログテープも破棄した。


 今回、家の建て替えを契機に、更に断捨離をすることになった。

新しい家は、今の家より遥かに小さい。

なるべく身軽になる必要がある。

デジタルテープメディアも、今度はコンピュータに取り込み、ファイルとしてアーカイブすることにした。

IT技術の進化によってスペースをどんなにか有効に使えるようになったことだろう。


 まずベータービデオデッキを探すところから始まった。

デジタル音楽データを画像データとしてビデオデッキに記録しているのだ。

以前、ヤフオクで数万円で落札したデッキは、使い物にならなかった。


 今回はFBでベータービデオデッキを持っている方を募った。

沢山の方が気にかけてくださり、いろいろサゼッションを頂いた。

ありがたいことです。

それでも現役で可動しているベータービデオデッキをお持ちの方はほとんどいなかった。

そしたらなんと青森の友人が持っていた。

彼はシンガーソングライター、そして調律師、そして何でも出来るスーパーマンだ。

早速送ってもらって、再生を試みた。


 でも、ほとんどダメだった。

かろうじて再生された音源も、結構デジタルノイズが乗っている。

30年も経つと、かなり劣化していて、まともに再生できないのだ。

デジタルデータをアナログテープメディアに記録している。

アナログアーカイブと変わらないのだ。

映像だったら劣化してもかろうじて見ることが出来が、デジタルは、データが欠けていると、無音になる。

エラーをどんなに修正しても限界がある。

まあ、迂闊でしたね。


 曲数的に、どのぐらいあったろう?

時間にして約10時間分。

テレビコマーシャルだから30秒とか15秒、長くて60秒の作品だから、数的には相当になる。

あの当時の関係者の誰かがストックしているかもしれないけど、可能性は低い。

テレビコマーシャル時代のアーカイブはもう永遠に聴けなくなった。

空白の15年、、、、


 <さようならテレビコマーシャル時代、、、>


 辛うじて再生された数曲をyoutubeにアップしてみることにした。

ご興味のある方は聴いて見てください。


残っていたCM音源

https://youtu.be/SCOz1o-Qpxk

@YouTubeさんから


補足、、、

1990年から、私は演奏活動を始めた。

そしてコンサートのたびにDAT(デジタル・オーディオ・テープ)で録音してきた。

ハードディスクを使ったデジタルレコーディングを導入する2004年までの約15年間、コンサートをひたすらDATでレコーディングし続けた。

そのストックは約400本!!

一本の時間は60分から120分。

だが、DATはアナログテープだ。

デジタルデータをアナログテープに記録するということでは、ビデオテープと同じことだ。

これら音源も、もしかして、いや、たぶん、もう聴けないかも、、、


ウォンウィンツァン

2018-05-13(父の一周忌に、、、)


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by wtwong | 2018-05-13 06:15 | essay

ピアノの置き場所、決定!!!

私のピアノ、ベーゼン290が使えるようになります>

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 お騒がせてしていました、家の建て替え中のピアノの居場所が、なんと今日、決まりました~

もっとも理想的な居場所になりました。

そこはスタジオなので、平置きに出来るし、湿度管理もしっかりしているし、しかも誰でも弾ける状態にすることが出来る。


 そのスタジオは調布市菊野台にあるJindai studioなのですが、いつもワークショップをやらせていただいているのです。

でも、私のピアノを入れちゃったら、広さ的にワークショップは無理です。

なので、全然思いつかなかったのですが、今日突然、オーナーの大島さんが連絡してきて「ベーゼンを私のスタジオに置くのってどうでしょう?」と、、、


 「ええ~ 置けるかもしれないけど、でも、ワークショップとか出来なくなるよ」

「いいですよ。やる気ないし、、、」

「ええ~ いいの~?

それじゃあ、置かせてもらっている間、弾いてもいいよ。

なんだったら、ピアノスタジオとして、リハーサルレンタルや、レコーディングに貸し出したらいいかもね、、、」

「ええ~ いいんですか~~?うれしい~~」


 ということで、7月中旬から、来年1月中旬まで、調布市菊野台にあるJindai.studioで、私のベーゼンドルファー290をリハーサルやレコーディングに使っていただくことが出来るようになりました~



 当初は、色々な可能性を、FBにアップしたりして、模索していたのですが、やっぱりプロに頼んだほうがいいよね、ということで、ベーゼンドルファーの専門の業者に、保管を依頼していました。

しかし、見積もりを見ると、36万円(消費税別)!!

しかも足を外して立てた状態での保管です。


 ピアノって、やっぱり平置きの方が良いし、弾いていたほうがいいのです。

なので保管としても理想だし、レンタルすれば運送費も充当できるかもしれない。

往復の運送費は片道約10万円、往復20万円がかかるのです。

仮住まいなど、湯水のように経費が出ていく中で、こんなに嬉しいことはないです。


Jindai Studioの大島厳さん、ありがと~

そしてよろしく~~

そして、そして、ベーゼンドルファー290でリハーサルしたい人、

或いはレコーディングしたい人、

ぜひ彼に連絡してみてください~~~


Jindai studio

https://www.facebook.com/jindai.studio/



ウォンウィンツァン

2018-05-07


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by wtwong | 2018-05-07 20:27 | essay

<日本のルーツ>


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古い戸籍謄本が数枚出てきた。

母方のルーツだ。

あまりに達筆で、ちゃんと読めないけど、、、

それに依ると、、、


 私の母「WONG TO ME(黄多美)」は生まれた時は日本国籍だった。

多美の母は「石川ハル」と言って、神戸の芸者さんだった。

石川ハルさんは、華僑である黄ヨクドウさんとの間に、私生子女「多美子」を生む。

つまり、私の母の最初の名前は「石川多美子」だった。


 その後、母は黄ヨクドウさんの中国大陸の本家に引き取られ「黄多美」という名で、中国籍になる。

十代後半、神戸に戻り、私の父、黄頌徳と結婚し、香港籍に入る。

イギリスパスポートを取得し「WONG TO ME」が正式名になる。


 日本の戸籍や権利書関係の名前には英語は使えない。

なので戸籍係などの当時の役人の勝手な読み方で、名前が錯綜する。

「ウォング・トメ」「ウォング・トーメー」「ウォン・トオ・メイ」「コウ・タミ」「ワング・タミ」などなど、、、

これらが同一人物であることを証明せよ、www


 さて「石川ハル」さんは神戸の芸者さんだった。

明治35年9月に生まれ、除籍謄本に依ると、大正15年8月に亡くなっている。

つまり、24歳の若さで死去しているのだ。

一説によると、実の子供を引き離され、傷心の中、病死したと言われている。


 石川ハルさんと黄ヨクドウさんの間には4人の子供いた。

つまり、私の母は4人兄妹だった。

戸籍謄本には「華一」「セミコ」「多美子」「富美子」の名がある。

24歳までになんと4人も子供を生んでいる。

私は「華一」さんと「セミコ」さんは知らない。

でも母がよく「セミちゃん」という名を呼んでいた。


ちなみに黄ヨクドウさんは、いろいろ奥様を作られていて、私の母には異母兄弟が沢山いる。

いつか、母方の従兄弟たちの家系図も作らねばとは思うけど、、、


石川ハルさんの出身は、ハルさんの祖父の地籍である大阪府中河内郡龍華村大字安中だ。

除籍謄本によると、亡くなった場所も、龍華村の実家だった。

ハルさんの両親の名前は「石川元吉」と「ぬイ」、、、

「元吉」の両親は「石川熊吉」と「ツネ」、、、

「ぬイ」の両親は「伊田治兵衛」と「セイ」、、、


石川熊吉の戸籍謄本には「族稱」という項目があって「平民」と書かれている。

よく調べてみると龍華村大字安中は、今で言う同和地区だ。


以下は想像だけど、、、

石川ハルさんの出身地は部落で、とても貧しい村だったはずだ。

そして、ハルがまだ若いうちに、芸者として神戸に売られたのではないだろうか。

ハルは芸達者だったと伝えられている。

芸者として修行を積んで、才能が花開いたのかもしれない。

そんなハルを、当時、華僑商人として名を挙げ始めた黄ヨクドウが見初めたのだろう。

そして16歳で最初の子供「華一」を生み、

その後「セミコ」「多美子」「富美子」を生んだ。

しかし、子供たちは皆大陸の本家に引き取られていく。

そして失意の中、24歳で亡くなった。

それがハルの一生だった。

なんか、涙が出ちゃう、、、


私の母の生まれた時の名は「石川多美子」

その母の名は「石川ハル」

その両親の名は「石川元吉・ぬイ」

元吉の両親は「石川熊吉・ツネ」

私の4世代前の先祖。

戸籍謄本から判るルーツはそこまでだ。

私の日本の血筋の故郷は「龍華村大字安中」

ちなみに「龍華村」という地名は其処にしかない。


2018-05-04

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CD「DohYoh1」のライナーノーツ


無限の「いのち」が遠い過去から遥かな未来へと連なっていきます。

ひとつひとつはか細い糸に過ぎない「いのち」たちの織りなすものは、なんと鮮やかな無限世界なのでしょうか。

その「いのち」の無限織物の広がりに想いを馳せる時、私達はまるで「カレイドスコープ」を覗き込んだときのような目眩と、ある感慨を覚え、誰しもが人間の果てしない営為に対する慈しみの念に包まれずにいられません。


そして自分というちっぽけな「いのち」は最初の「いのち」がこの世に誕生した時、すでに予感されていたのであり、やがては限りなく再生され続ける「いのち」の彼方に、その姿を残してゆくのだと思い至るのです。


このCDは、過去の贈り物である童謡をどう引き受け、音楽としてどう刻印し、連綿と続いていゆく「いのち」の群れに託すことが出来るかという音楽家としての私なりの儀式であり、そして祈りです。


ウォンウィンツァン1997


CD「DohYoh1」

http://www.satowa-music.com/cd/cd-doyo.html


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by wtwong | 2018-05-04 02:15 | essay
<コア・ビリーフ(核となる信念)の壁>
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 私なりに社会問題や政治問題にコミットする中で、この数年、どうしょうもなく動かしようがない壁に突き当たってしまった。
それは社会問題なり、政治の不正なりをどんなに告発しても、社会全体としては盛り上がらない。
無関心、不参加が横行していて、どうしょうもない苛立ちと無力感を持たざるを得なかった。

 そして、私の関心はこの社会全体の心理、集合意識、道徳心理学などに移行していった。
なぜ彼等は動かないのか?
なぜ彼等はかくも防御的で、変革に対して拒否的、臆病なのか?

道徳心理学や社会心理学では、その答えを「集団選択」や「ナルシズム」あるいは「未熟な自我」「嗜癖」といった、人類のDNAや、共同幻想などに見出した。
そして最近、脳科学の世界では「コア・ビリーフ(核となる信念)」の問題として解き明かし始めている。
人間の脳は「物理的な危険」も「知的な危機」も同じ反応を引き起こすことが判ったのだ。

 つまりは、そう簡単には、人は鎧を脱がない、、、
勿論、個々人のパーソナルな問題でも同じことが起きている。
つまりアイデンティティーの崩壊を人は極度に恐れる。

 さて、ここまで来て、では、どうしたら良いのか?
どうやって社会変革が起きうるのだろうか?

 私たちは積極的に彼等を変えることは出来ない。
それはイソップ物語の太陽と風の逸話と、答えは同じ、、、
コア・ビリーフを壊そうとすればするほど、防御は固くなるだろう。
彼等(学者たち)の答えは結局は「待つしかない」ということになる。

 私たちは太陽のように、彼等を暖かく照らしながら、鎧を脱ぐまで、根気よく待つしかないのだろうか、、、
それまでに、人類全体が「ポイント・オブ・ノー・リターン」を超えないことを祈りながら、、、

コア・ビーフについての解説、日本語訳

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by wtwong | 2018-01-12 21:44 | essay
<年末のご挨拶、パパさんの旅立ち>
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 さて、今年も余すところ二日になりました。
今年も皆さんに、大変お世話になりました。
コンサートやワークショップも各地でさせていただきました。
皆さんの応援があって、活動が続けられています。
お陰で、毎日、幸せを感じています。
心から感謝しています。

 今年は今までになく激動の年になりました。
沢山出来事がありましたが、その中でも父の他界は、生涯の忘れがたい大切な体験となりました。

 昨年11月に父が転倒、大腿骨骨折で入院し、その後、今年の1月末に老人施設に入居、そして5月13日、97年間の生涯を遂げました。
病院にも施設にも、私達家族はほぼ毎日のように通っていましたので、みな疲労困憊していた矢先の旅立ちでした。

 父親との別れは、私達家族にとって、掛け替えのない思い出となりました。
亡くなる二日前、真夜中、私は父親と永劫の別れを交わしました。
父の両手を取って「もうすぐお別れだね。私たち家族が幸せなのはパパさんのおかげです。本当に感謝しています。ありがとう、パパ、、、」と話しかけました。
すると父は強く握り返してきて、目からは幾すじもの涙が流れていました。
母や妹や友人を看取ってきましたが、父との別れは、今までにない、ちゃんと向き合う中で交わした、魂の別れでした。

 そして亡くなる前日、私たちはホームでラストコンサートをしました。
パパさん、ホームに居るご老人たちや、その家族たち、そしてホームの職員に向かって、息子の美音志君、歌の枝元一代ちゃん、そして私で、最後の別れの演奏をしました。
父はちゃんと洋服を着替えて、コンサートを聴いていました。

 その翌日、5月13日、六本木でライブ演奏をしている最中、ホームから連絡がありました。
「呼吸に変化があり、至急ホームに戻って欲しい」、、、
私がホームに戻った時、美枝子が「パパさん、さんちゃんがもどりましたよ」と話しかけ、少し安心したようでした。
そしてその直後から下顎呼吸が始まり、もうすぐ別れが近いことが判りました。
私達家族は父をさすりながら、それぞれ別れの言葉を投げかけました。
それから30分ぐらい立った時、静かに息を引き取ったのです。
その時、私には魂が身体から抜けていくのが見えるようでした。

 私は今までに母や妹や友人、そして今回は父を看取らせてもらいました。
それらの体験は私の人生を豊かにしてくれています。
彼等からの大きなプレゼントだと、ほんとうに感謝です。
これらの看取りの体験をベースに、私の師匠、吉福伸逸さんの「死のワークショップ」を始めることにしました。
死ぬこと、看取ること、それらはいったいどのような体験なんだろう。
ワークショップでは、様々な角度から「死」や「見取り」そして「命」を考え、体験していきます。
今年だけで4回のワークショップをさせていただきました。
来年にはもっとブラッシュアップして、医療従事者などを対象にもワークショップをやっていきたいと考えています。

 さて、来年はどんな年になるか、とても楽しみです。
皆さんにおかれましても、幸せで健康な年でありますように、心からお祈り申し上げます。

ウォンウィンツァン
2017-12-30

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by wtwong | 2017-12-30 09:10 | essay
「ほんもの・しあわせ・ローカリズム」
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<音楽離れ、つぶやき>

若い人たちの音楽離れは、深刻だとか、、、
まあ、商業音楽が粗製濫造されたことや、インターネットで自由化されて、コンテンツがフラット化されたことなど、いろいろ理由はあるだろうけど、、、
一番難しいのは、新しい音楽の未開地が、もう殆どなくなっていることだと思う、、、、
昔は音楽を作ることや聴くことって、なにか歴史や社会や文化とかいうものに、コミットしているという実感があった。
今は、空疎なカンジがするんだろうな、、、

でも、人間の音楽を求める根源的な要求がなくならない限り、音楽は生き続けると思うよ、どんな様相になろうとも、、、
音楽を作る人、演る人に言えることは、リアリティーを持てれば幸いだよね、ってことかな、、、

それを見つけて、得るのって、大変だけど、、、
あるから、リアリティーって、、、必ず、、、

<空疎な街、、、つぶやき>

空疎と言えば、今日の午後、渋谷で打ち合わせが終わって、ウォーキングがしたかったので、代々木まで歩いた。
その道すがら、ファッショナブルなお店が延々と並んでいるんだけど、全然意識が向かない。
なんかとっても空疎な感じがして、、、
ファッションに興味が無いせいかな〜〜

<ローカルな原宿、、、つぶやき>

空疎な街だな〜
そんなこと思いながら千駄ヶ谷ぐらいにたどり着いた時に「黒うどん」という看板が目に入った。
あまりお腹が空いていなかったので、ちょっと躊躇したけど、なんか惹かれるものがあって、地下にあるお店に入った。
そしたら原宿とは思えない、どこかの田舎の居酒屋みたいな感じで、カウンターの中にいる女性が、思わず「おかあさん」と呼びたくなるような方がいて
「煮込みうどんしか無いんですよ。
味噌味か、醤油味、、、」
私は迷わず「みそで、、、」
美味しかった。
「本物のうどん」だと思った。

<街の中のローカル、、>

本物って、あるんだよ、今でも、、、
でも、それは派手じゃないし、ファッショナブルでもない、、、
でも、空疎じゃない、本物は、、、
ローカライゼーションていうのは、場所の問題じゃないような気がする。
地方とか都会とかじゃなく、本物は、でもひっそりと生き繋いでいる。
それで良いんだと思う。
そのようにしか生きることが出来ないと思うし、、

キラビヤカな幸せじゃないかもしれないけど、、、、
本物の、慎ましい幸せなんだよな〜

<本物の幸せはローカリズムから、、、>

世界はグローバリズムが席巻している。
世界は無法地帯となって、それを制御するすべがない。
マネーという実態がないお金が飛び交って、本物をどんどん駆逐している。
その先に見える社会は、寒気がするほど空疎で、いや、それどころか、荒廃した人間たちが、、、
それに抗うのはローカライゼーションしかないと思う。
そこに私達人間の本来の生きる姿があると思う。
それは身近な人との出会いから始まる、、、
でも、社会システムをローカライゼーションにカジを切ろうとする政治的な動きは、ことごとく潰されているし、有権者の意識もそちらに向きにくい、、、
グローバリズムはキラビヤカで豪華だ、、、
ローカライゼーションは地道だし、派手じゃない、、、
なので苦戦している、、、

「本物の幸せはローカルにしかない」
その事に社会が早く気づいてほしい、、、

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by wtwong | 2017-11-28 01:07 | essay
<コンサート「おくる音楽」を終えて>
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 さて〜〜
コンサート「おくる音楽」無事終了しました〜
疲れたけど、やり終えた感でいっぱいです。

 私の曲が、ストリングスと相性が良いのは判っていました。
でも、なかなか自分の思った音楽にならないのが、悩みでした。

 CD「フレグランス」の録音では14人ぐらいの編成でしたが、自分的には不満が残りました。
その後、CDの制作には、シンセサイザーやサンプリング音源で、サウンド作りをしたわけです。
それは生のストリングスでは自分の望むサウンドにはなりにくいので、それだったらシンセサイザーのほうが、よほど自分のイメージするサウンドにすることが出来ると思ったからです。
それは成功したと思います。
シンセサイザーの音質とは言え、ゴージャスなサウンドになっています。

 生のストリングスが、自分の思うサウンドにならないのは、私の編曲の技量の問題、演奏者との関係性の問題、録音の問題、お金の問題、などなどがあります。
「光の華」では、再チャレンジしたのですが、もっと不満が残り、結局ピアノソロと、ストリングスありの、二枚組にしたものです。

 昨年の浜離宮朝日ホールのコンサート「光を世界へ」を最後にこのホールからも卒業しようと思っていました。
朝日ホールの響きもピアノも大好きなのですが、私のピアノの音楽には大きすぎるといつも感じていました。
いらっしゃるお客様も、徐々に減っていきましたし、収支的にもギリギリでした。

 私が本当にやりたい音楽は生のピアノ一台で、同じ目線で、目の前のお客さんに向かって、語るように、まさにムーントークをしたい、それが原点でした。
拍手もいらない、一音一音、音を紡ぐように、演奏したい。
そういう演奏は、むしろ各地のコンサートでは出来ていました。
100人前後の規模での演奏が、自分には一番あっているといつも感じていました。
いわゆるサロンコンサートですね。

 ですので、今年は朝日ホールはやらないはずでした。
ところがもうすでに予約してあった朝日ホールのキャンセル料が、実は馬鹿にならなかったのです。
どうしょうかな〜と思っていた時に、今年3月頃、NHKの番組「目撃!にっぽん」のタイトル曲の依頼がありました。
そのストリングスの録音に、たまたま日本にいた金子飛鳥ストリングスにお願いできたのです。
そのサウンドを目の当たりにして、欲望が出てしまいました。
浜離宮朝日ホールの大きさや響きに、このグループは最適だし、最後はこのストリングスと一緒にやりたい!!

 彼等も私のサウンドを気に入ってくれました。
そして、すでに決まっていた秋の朝日ホールのコンサートの日に彼等を抑えることが出来たのは、飛鳥さんも奇跡的だと言うほどでした。

 さて、それからが大変、、、
編曲は9月の下旬から始めたのですが、やはり力量の壁がありました。
何度も何度も書き直しながら、日にちばかりが過ぎていくし、他のスケジュールもあるので、編曲だけ集中しているわけにも行かないし、結構焦燥感で追い詰められたりしたものです。
はじめは試行錯誤で、何度もやり直したり、なかなか先に進みません。
編曲の書き直しは、コンサートの直前まで続けて、金子飛鳥ストリングスのメンバーに何度もメールで新たに楽譜を送り、随分と迷惑をおかけしたものです。
飛鳥さんにもチェックして頂き、演奏上無理なことも書き直したりしました。

 どうなることかと思いながらも、コンサートの前日のリハーサルの日がやって来ました。
実はリハーサルのための時間を充分押さえてなかったんですね。
一曲最低30分のリハーサルとして、15曲やると、8時間、セッティングや休憩も入れるなら9時間から10時間は欲しいところです。
でも、私のミスで、なんと6時間しか押さえてなかったんです。
どひゃ〜〜です。
でもなんと6時間で全曲のリハーサルをやり終えたんです。
本当に奇跡!!

 そしてコンサート当日の昼、全曲を一回通して、後は本番に望みました。
コンサートはあっという間の2時間半でした。
全15曲、自分のミスはともかく、すばらしいアンサンブルが実現しました。
コンサートに来てくださったお客様はそのサウンドに魅了されたのか、沢山好意的なアンケートを残していってくれました。
それを読みながら、やはりやってよかったと、深く思いました。

 ストリングスのメンバーからも「これだけ短時間でまとまったのは、編曲や譜面がしっかりしていたから」とお褒めいただいたし、また、あのいい加減な指揮ぶりに、「思いが伝わってきたから、すごくやりやすかった」と言ってくださり、本当に嬉しかった。
メンバーからの賛辞が一番嬉しいですね。
でも、何よりあの素晴らしい音楽が実現したのは、メンバーの音楽の力量以外の何物でもありません。
すばらしいです、音楽家としても、人間的にもです!!

 さて、一つの壁を超えられた気がします。
その壁を超えるためには、これだけ年月が必要だったし、タイミングや縁起などの支えも必要だったと思います。
大きな宇宙の計らいをいうものを感じざるを得ません。

 金子飛鳥さんとストリングスのメンバーに、来てくださったお客様に、沢山の影のスタッフ、そしてさとわミュージックを支えている二人の女神に、そして天国から見守ってくれているたくさんの霊に、こころから深い感謝です。
ありがと〜〜

ウォンウィンツァン
2017-11-24
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by wtwong | 2017-11-24 03:31 | essay