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カテゴリ:essay( 130 )

<緊急事態宣言を受けて>


1918年に発生したスペイン風邪の時も、結局手立ては隔離しかなかった。

つまり、100年たった今も、ウイルス対策は本質的に変わらない。

感染しない、感染させないためには、実にわかりやすい方法、

ひたすら家から出ないこと


StayHome


それしかないのだ、、、、

それが最も効果がある方法だ。


スペイン風邪の流行は数年に及んだ。

そして大きく三度のピークがあった。

賢者達が言うように「歴史は繰り返す」のであれば、

私たちはコロナウイルスの脅威を三度味わうことになる。


しかし、もし「歴史に学ぶ」のであれば、

同じテツを踏まないで済むかもしれない。

と、それは楽観的すぎる。

どんなに知識が増え、医学や疫学が高度になっても、

人間そのものは愚かなままだ。

なので「歴史は繰り返す」ことになるのだろう。


緊急事態宣言が今夕、発令するという。

この3月3日から、断続的に続けてきたyoutube liveによるライブ配信を、

今は、毎日やろうと、決心しつつある。

世界の混乱の中で、

私自身を見失わないために、、、

そして聴いてくださる友人たちと

繋がっていることを確かめるために、、、


そしてコロナショックの悪夢から覚めた時、

新しい世界観、生命感を人類が獲得するために、

祈りとして、私たち音楽の徒は、音楽を紡いで行く、、、


ウォンウィンツァン

2020-04-07


by wtwong | 2020-04-07 12:39 | essay



いつも私のライブ配信演奏を視聴いただいている皆さん、ありがとうございます。


★この度、youtubeで新たなチャンネルを発足しました。


これまで行ってきたライブ演奏は、これからこの新しいチャンネルで配信していきます。


このチャンネルは、私のライブ配信や動画コンテンツだけでなく、

まだ自分のチャンネルから収益を挙げられないミュージシャンたちの活動の場にしたい。

なんとかミュージシャンが生きていく上で、少しでも応援できる場にしたい。

そんな想いで発足しました。


と言っても、このチャンネルは、サトワミュージック・ホームページの管理人である羽室ゆきさんのBlueMOONのチャンネルでした。

この度二人で協議し、新たな活動拠点にしようと、この苦難の時代を乗り越えるための場作りをしようと、、、

そのために、まずネーミングを変えました。

私も積極的に関わりたいと考え、私の名前を使いました。


このチャンネルは収益化が出来ます。

(私のチャンネルは条件は満たしているのですが、なぜか承認されません)

といっても現段階では、チャンネル登録者数1500人程度で、年間の広告収入が1万円程度で、とてもお話になりません。

なのでぜひ皆さんのご協力お願いしたいのです。


なんとかチャンネル登録者数をアップしたい。

チャンネル登録者数が1万人を超えると実質的な収益化の段階に入れると言われています。

ぜひ皆さん、登録ボタンを押してくださいね。


そしてベルマークをクリックして、配信の連絡を受けてほしいのです。

ページの右上にあるベルマークをクリックすると配信するたびにお知らせや告知が行くことになります。


また「投げ銭」が出来るので、それもミュージシャンの収益に結びつけていきたい。

投げ銭とは、ご覧になった方が、いくらかのお金を払うに値する内容だと思われた方が、その想いに準じた金額をお支払いできるシステムです。


また今後は限定公開による有料ライブ配信の可能性も考えたい。


もちろんオーディエンスのみなさんに聴くに値する、見るに値するコンテンツを、しっかりプロデュースしていきたい。

ライブ配信ならではのチャンネルに育てていきたい。


ですので、皆さんのご協力が必要です。


チャンネル登録をまずしてください。

そして、ライブ配信をご視聴のときには、「投げ銭」でのカンパも是非お願いします。


なにとぞよろしくお願いします。


チャンネルのurl

https://www.youtube.com/channel/UCVhWlMwS46hFTOEpqrc2a8A


ウォン・ウィンツァン

2020-04-02


by wtwong | 2020-04-02 15:39 | essay

<The World is Oneness>

(新型コロナウイルスの「意味」)


ようやく、何かが、見えてきたような気がします。


<The World is Oneness> (新型コロナウイルスの「意味」)_f0236202_22313386.jpeg

 中国の武漢で、最初に感染したのは、たった一人でした。

新型コロナウイルスの感染者0号です。

それがまたたく間に世界全体に広がったのです。

ほんの数ヶ月の間にです。

そして今現在、世界はウイルスの脅威にさらされています。

医療崩壊という聞きなれない言葉は、圧倒的な患者の数に対応できずに、命を落とす人が多数出ることです。


 この現実に多くの人が驚いていることでしょう。

しかし思い出してください、、、、

スピリチャルな人たちが長年言い続けてきたことを、、、

そう「世界はOneness」だと、、、

図らずもウイルスはそのことを証明してくれました。


 あらゆる次元において<世界はひとつ>なのだと、今回のことで、私も再び気づきました。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という宮沢賢治の言葉を、一体誰が本気で信じたでしょうか、、、

この言葉は逆の意味でも、また心の問題だけでなく、リアルな現実の問題としても、真実だったのです。

もし、世界のどこかで未知の感染者が現れたら、それはもしかしてあなたの感染に繋がるかもしれないことを、私達は今リアルに体験しているのです。


 それは、日本の衛生事情がどんなに優れていようとも、どこかの国の、どこかの片隅が不衛生で、ウイルスの温床になっていたら、それはいつでも脅威になりうるのです。

つまり、防疫は一国だけの、一地域の問題ではなく、世界全体の問題なのです。


 一国だけが良ければ、世界の片隅の感染者など、どうでもいいというふうには、もうならないぐらい世界は一つになりました。

それが本当のグローバリズムの意味ではないでしょうか。

世界全体が、お互いの信頼関係を育み、物質的にも精神的にも分かち合わなければ、いつでも今回のような脅威に見舞われる可能性があるということ、それが今回のコロナショックが私たちに示したことです。


 逆に、もしあなたが感染者になったら、あなたは世界に脅威をもたらすかもしれない。

世界は一つだと信じているのであれば、想像してください。

あなたが無症状キャリアになって、世界の誰かを不幸にするかもしれないことを、、、

今回のウイルスは、高齢者や基本的な疾患をもっている人にとっても過酷です。


 私達の想像力は、実に脆弱で、限界があります。

東京に100人の感染者が出たとして、それがパンデミック(感染爆発)直前なんだと、誰が想像できるでしょう。

外に出れば、爽やかな風と、温かい陽の光、桜の花びらが舞う公園をウォーキングしていると、世界が最も難しい局面に遭遇しているなんて、誰が想像できるでしょう。


 しかし、感染症の専門家たちは、必死になって警鐘を鳴らしています。

あのクルーズ船のドタバタを思い出してください。

感染症の専門家を追い出し、封殺したために何が起こったでしょう。

私達は彼ら、専門家たちの言葉を信頼するということが必須な時代に入っています。

宇宙船地球号の舵取りは、もう私利私欲の政治家や資本家に任せられる段階はとっくに終わっています。

少なくとも、今回のウイルスの脅威を脱するために、謙虚に彼らの言葉に耳を傾ける必要があります。


 彼らは私達に訴えています。

「どうか二週間、14日間、家に閉じこもってください」

要望はこれだけです。

そうすれば、ウイルスに感染することもなく、また感染したとしても、誰かに感染させることなく、あなたの免疫力と回復力でウイルスは死滅します。

ですから、国や行政からの規制でも、要望からでもなく、自らそれを自分に課してほしいのです。

私の友人の何人かは、自主的にロックダウン(自主隔離)を実施しています。

彼らは<世界はひとつ>で有ることを、本当に理解している人たちなのです。


 しかし、たったの二週間とは言え、あらゆる活動、特に経済活動を押しとどめることは、容易なことではないでしょう。

3月の自粛により、どれだけの中小企業、フリーランス、個人が経済的に追い詰められたことでしょう。

さらに4月に入ろうとしている今、東京はロックダウンの可能性があることを都知事が言明しました。

一体どれだけの犠牲を払うことになるのか、国や行政はどれだけ理解し、把握しているのか、甚だ心許なく感じている人は多いでしょう。

家賃や光熱費、ローンの支払いは、牛肉券やお魚券では払えません。

私たちは強く行政に働きかけていく必要があります。

信頼できない行政機関を持った国民は、なんとも悲惨です。


 だからこそ、私たちは今回のコロナ騒動をきっかけに気付かねばならないことがあります。

「経済活動」とはなんなのか、、、

わたしは経済学者ではないし、十分勉強しているとは言えないので、わたしが語るべきことではないですね。

でも、はっきりわたしが知っていることがあるとするなら、世界の人々が働くのをやめたとしても、十分な富はあるということ、それらの富は世界の人口の約1%未満の人が、独占していること、それらの格差をいかになくすか、富の分配をどうするか、それだけで問題は解決されてしまうだろうこと、、、、


 もう一度思い出して欲しいのです。

<世界はひとつ>

すべての人はこの世界に繋がっていて、世界の片隅にいる命を蔑ろにすることは、その結果としてそれは自分の問題に帰ってくるということ、、、

この二週間の自主的な自宅待機が、この世界を救うということ、、、、


 私たち人間は、社会的存在です。

人に会うこと、触れ合うことはとても自然なことです。

でも、今回のウイルスは、そんな人間的な側面を利用して広がっています。

コンサートも終われば、サイン会があり、握手をし、時にはハグもし、一緒に写真を撮るのが、自然なことでした。

でも、今はそれをしないことが、むしろ相手に思いやることになっています。

人間は距離を取られると、例えば握手やハグを拒否すれば、避けられている、嫌われていると思われてしまう可能性があります。

そんなふうに相手に思われたくないので、私もついつい握手したり、写真を一緒に撮られたりしています。

それは私の音楽を愛してくださっている方たちへの、お返しであり、私からの感謝の気持ちだった。

でも、今は、それをやらないことが愛なのだということを、お伝えしておきたいのです。

私もとっても辛いのですが、それが今求められている社会的距離の持ち方なのです。

是非ご理解ください。


 私は3月に入ってから、試行錯誤しながら、自宅から音楽をインターネットを通して配信を始めました。

以前、2011年3月11日以降、わたしは約二ヶ月にわたって、自宅スタジオから音楽配信を続けました。

東日本大震災と、それに続く原発事故を受けて、居ても立っても居られない気持ちから、音楽家としてやれることをやらねばという、それなりの使命感を持って続けました。

そして今回、あの時と同じ、或いは、また違った面持ちで、インターネット配信を始めることにしました。


 音楽は、祈りであり、魂からのメッセージでもあります。

インターネットは、ウイルスと同じように、世界がつながっていることを思い出させてくれます。

先日の配信では、中国やシアトルの隔離生活をされている方からのメッセージもありました。

世界はひとつです。

自宅のスタジオという、最も小さなスペースから、全世界に向けて、わたしは祈りと想いを発信しているのだという気概を持っています。

それが音楽家としての、ロックダウン(隔離生活)で出来ることだと信じています。


ブッダの一番好きな言葉があります。

自灯明 法灯明

(自己を灯火として生きよ、宇宙の摂理を灯火として生きよ)

皆さんにおきましても、社会内存在であるとともに、宇宙存在として、ご自身の生き方を満喫されることを、祈念しています。

ありがとうございました。


ウォンウィンツァン

2020年3月27日


by wtwong | 2020-03-27 22:32 | essay

<新年のご挨拶>

(新しい気づきへ)

新年のご挨拶(新しい気づきへ)ウォンウィンツァン_f0236202_22252998.jpeg

2020年元旦

明けましておめでとうございます。

この2020という数字の並びに、何か新たな展開が始まるのではと、不思議なワクワク感を感じるのは私だけではなさそうです。


昨年は多くの方から一方ならぬお世話になり、心から感謝を申し上げます。

私が1990年から始めたコンサート活動の中で、昨年が一番多く演奏させていただいたと思います。

それだけお世話になった方が多いということですが、なかなかちゃんとお礼をしていないのが、心残りです。

この場を借りて、お礼申し上げます。

ありがとうございました。

加齢と共にますます不義理をすることになると思いますが、何卒ご容赦いただきたく、よろしくお願いします。


さて、各地にツアーする様子をなるべくFacebookにアップするようにしていますので、いかにも多忙に働いているように見えてしまい、多くの方から健康を気遣って頂き、恐縮しています。

私は不思議に元気です。

70年の人生の中で今が一番健康感があるのです。


演奏すること、そして多くの方達と交流すること、それらから私にとってどれだけエネルギーをもらっているか分かりません。

打ち上げがまるでワークショプのようだとおっしゃる方が多くなりました。

コンサートやイベントの後、皆さんが心を開いてお話しくださいます。

私にとって人々の魂の肌に触れさせていただくことが、何よりものプレゼントなのです。

本当に私の職業はラッキーなのです。


昨年はワークショップも数回行うことができました。

ワークショップはコンサートよりエネルギーを必要とします。

それでも、参加者の大きな変容を目の当たりにすることは、インストラクターの役得です。

参加者に共感し、泣き、笑い、叫び、抱擁し合う中で、私の魂がどんなに成長させてもらうことでしょう。

本当に感謝です。


昨年は個人的にも大きな気づきがいくつかあり、ますます開放度、癒し度が上がっていています。

それらの気づきは、もちろん意識の深いところで求め続けてきたものであるわけですが、なにかの拍子に、なにかの出会いや、フッとしたキッカケで、まるで結ぼれていた謎が解けるような、とっても不思議な体験でした。


改めてブログに書くつもりですが、触りだけ箇条書きしてみます。


1、その一つは過去の記憶に関して、、、、

瞑想を長年やっていると、自分を今ここにいること(Be Here Now)を割とすぐできることです。

しかし、日常意識の中でやってくるフラッシュバックには抗することが出来ません。

油断しているとやってくる過去のネガティブな記憶にどう対処するか、それは長年のテーマでした。

それが昨年、山川亜希子さんとのコラボの時、あるヒントがやってきて、それを実践していたら、いつの間にかフラッシュバックが起きなくなっていたのです。


2、意識にはいくつかのレベル(次元)があると、私はブログやFacebookでお話ししていたかもしれません。

それはせいぜい4つのレベル(次元)です。

それらを混同することなく、それぞれの生き方があると、、、

パーソナルな次元、リレーショナルな次元、ソーシャルな次元、そしてスピリチャルな次元、、、

それがもっとあることに気づいたのです。

それは先日亡くなられたラム・ダスからもらったインスピレーションでした。


3、自我の成長というのはなんだろう、どこまで行くのだろうか?

限界はあるのか?という疑問です。

それらの段階的な成長が、実はリニアーに進んでいくものではなく、まるでロシア人形マトリューシカの様に成長して行くということに気づいたのです。

私たちの意識の中には生まれたばかりの自分、幼児の自分、少年期の自分、という様に、どの成長段階の自分を捨て去るのではなく、入れ子人形の様に、包括する様に、包摂する様に成長していくのだということに気づいたのです。

心理を勉強されている方には当然の理かもしれません。

でも、その理がよりリアルに様々な自我的な意識を解析する上で理解できる様になったのです。


4、そして70年の人生を振り返って、様々紆余曲折しながら、自分がなにを求めていたのかがわかる様になってきました。

それは、一言で言えば「どんな人にも自分自身、あるいは本性がある。

人生は、自分自身が自分に出会い、自分に重なるための、冒険の旅だった。

誤った自己イメージを脱ぎ捨てて、自分自身になる旅だった。

そしてそれは私にしか歩めない固有のプロセスであって、誰に教わることもできない、暗中模索の旅だった。

そして今、自分が自分に重なった時、そこに自ずとやってきたのは開放と自由、そして幸福だった」ということです。


私は単にラッキーな人間、幸運な人生を歩んでるだけでしょうか?

私に起きたことは、他の人に共有できるではないか、そう思っています。


さて、端よって書きましたからわかりづらと思います。

そのうち、じっくりブログに書きたいと思っています。


昨年は新しい家で、孫娘と戯れる時間も増えて、なんともおじいちゃんはデレデレの幸福感です。


今年は「目撃にっぽんのテーマ曲」などためていた曲をCD化する予定ですし、2017年浜離宮朝日ホールでの飛鳥ストリングスとのライブレコーディンCD化など、やりたいこと目白押しです。

まあ、歳も歳ですから、のんびり、でも80歳までは頑張りますので、今年も、皆さん、何卒よろしくお願い申し上げます。

そして、皆様におきましても、そしてこの世界の全ての人が、本当の自分自身でいて欲しいと、心から祈っています。


ウォンウィンツァン

2020/01/01



by wtwong | 2020-01-01 22:26 | essay

<命の自己決定権>


6月2日にNHKスペシャルの放映されたドキュメンタリー「彼女は安楽死を選んだ」は大きな衝撃でした。

人が旅立つその瞬間をテレビで放映されたことって、日本ではほとんどないと思います。

私も魂を揺さぶられました。

今、私が感じていることをお話ししておきたいと思います。


昔、まだ医療が進んでいなかった時代は命の指導権は魂、あるいは肉体、あるいは神にありました。

人の死は、事故や戦争以外は、病気も含め自然なことだった、あるいは自然に近い現象でした。

運命に、あるいは神に委ねるしかなかったわけです。

逆に言えば、死について、それほど考える必要もなかったのです。

死について、誰も考えたくもなかった、と言うことでもあるでしょう。


近年、医療が進み、胃瘻や人工呼吸などで、延命させることがいくらでもできるようになり、命の指導権が医療システムや家族の思惑に左右されてしまう時代にいると思うんです。

つまり、自分の意思に関係なく、救急車で運ばれれば、自動的に延命処置をされてしまうのです。

意思表示ができない場合、あとは家族に任せるしかない。

家族にとっては苦渋の選択を迫られるわけです。


今、私たちに突きつけられているのは、安楽死も、尊厳死も、そして延命も、その指導権を医療システムや、家族の思惑から、自分自身に取り戻すことがテーマだと思うんです。

自然や神に任せたつもりが、いつの間にか医療システムのコンベアーに乗っている。

そんなはずじゃなかったのに、いつのまにか、スパゲティー状態にされて、生かされている。

わたしの義理の父は、病院で、呼吸器など、様々な器具を自分から取り除こうとして暴れるので、手足をベルトで繋がれていまいました。

人の命は神や自然の采配の元のはもうないのです。

そのままほっておけば、医療システムに、自分の命を任せてしまうことになるのです。

私たちが今直面しているのは、自分の意思の元に命の決定権を取り戻すか、それとも医療システムに任せるのか、と言うことだと思うのです。

つまり生きるも死ぬも、自分の意思、自我の問題になっていると、そう思うんです。

だとすると、その自己決定権を持っている「自我」ってなんだ?という話になります。

しっかりした死生観を持つ前に、ほとんどの人が自分自身に向き合っていません。

そのような人生を歩んできた人が、死に向き合った時、いきなり死に向き合えるはずもなく、結局はその人の生き方は、死に方になっていくと、私は思うのですが、、、

自分でしっかりとした死生観を持つためには、それなりに勉強する必要があります。

「死の勉強」です。

私たちが「デス・ワーク」を始めた理由はそこにありました。


三十五年ほど前、母がすい臓がんで亡くなりました。

その最後の日の前日、医者が私に聞きました「もう、そろそろいいですよね?」

母が延命処置によって生きながらえていることを知らなかった私は驚きました。

そして、苦しみ続けている母を見てきたので、ただただ頷くしかありませんでした。

多分父親にその判断力がないと感じた医者は私に確認したのでしょう。

何も知らない父は、母が息を引き取るその時まで「死ぬんじゃない。頑張れ!!」と叫び続けていたそうです。

私は母が息を引き取る瞬間には立ち会えませんでした。

寝ずに看病していたのですが、、、

私はその時の引き裂かれた心情を、多分永遠に忘れないでしょうね、、、

母親とは言え、人の命の決定権を持たされたくはないですよね、、、

だから、私は自分で決定したいと思うのです。


「彼女は安楽死を選んだ」に対する世論は様々です。

わたしは、それが善であるか悪であるかと言うことよりも、その女性が自分の命の決定権を行使したことに、強い感銘を受けたのです。

同じように、そのドキュメンタリーでは、延命を選択した同じ病気の人も丹念に取材しています。

どちらの命も、自分の意思で選択したこと、そのことがこの映像が最も伝えたかったことではないでしょうか。


今回の文章は、以前、ファイスブックにあげた「彼女は安楽死を選んだ」について書かれたものを、加筆、修正したものです。


ウォンウィンツァン

2019/06/09


by wtwong | 2019-06-09 01:40 | essay

<世界の中心で、苦しみを叫ぶ>


生まれたばかりの赤ちゃんは、世界の中心にいます。

自分自身の存在と、世界とは分け隔てなく、一つなのです。

赤ちゃんこそがOnenessを実現している存在なのです。

お母さんも、お父さんも、自分自身なのです。

もし赤ちゃんが不安げな表情を表していたなら、

外界に晒されて、自分がもしかして中心では無いのかもしれないと、

薄々気づき始めているのかもしれません。


そして8~10ヶ月前後から、ついに自分が中心では無いことに気づきます。

母親が自分ではなく、自分の外にいる存在であることに気づきます。

吉福さんは、赤ちゃんにとって、出産と同じぐらい、きつい、激しい体験なのだと言います。

自分が中心ではない。

母親は自分では無い。

それは青天の霹靂と言っていいぐらいの災難なのだ、と吉福さんは言います。

自分の外側に広がる未知の世界は、どんなに不安に満ちていることでしょう。

その時から「自我」の成長が始まると言われています。

自我とは「内と外」の間に境界線を形成することに他なりません。

様々な次元の「内と外」に気づき、自分自身を守るために自我が成長を始めます。


さて、もし健全な自我の成長というものがあるならば、問題はないのですが、

普通、まずそんなことはありません。

もちろん信頼関係がしっかりした愛情深い家庭でなら、ある程度しっかりした自我を成長させることはできるでしょうが、それでも学校などのいびつな社会に晒されている場合もあるのです。

ですから、どんな人も危うい、脆い、いびつな自我を抱えて、戦々恐々としながら、この社会を生きていると言えるでしょう。



ここで話題にしたいのは、その危うい脆い自我は、どんな人も時に崩壊することがあるという話です。

様々な理由でそれは起こります。

何かに追い詰められたり、事業が破綻したり、出産の苦しみだったり、何日も寝ていなかったり、失恋したり、突然の死別だったり、そのようなショック体験の中で、自我の危機体験をすることがあるのです。

精神医学的にはそれを統合失調症とか急性妄想障害と言ったりします。

トランスパーソナル心理学では、それを「スピリチャル・エマージェンシー」(魂の危機)と呼んでいます。

まあ、魂のパンドラの箱を開けてしまったような状態です。


様々なアクティングアウト(行動表出)が現れますが、その一つに赤ちゃん回帰があります。

つまり世界の中心に戻ってしまうという体験です。

内と外の境界線がなくなってしまうような体験です。

そうなると、大人の知識や考え方と、赤ちゃんの中心回帰が重なって、全てのシグナルは自分に向けられていると感じたりします。

例えばテレビで話されていること、新聞で書かれていることが、自分のことを言っていると感じたりします。

ステージ上で歌っている意中の歌手が、自分に向けて愛を告白していると感じるかもしれません。

あるいはジョンレノンが自分に向けて「世界のことはお前に頼む、、、」と言うかも知れません。

(私は夢の中でジョンに言われました、www)

イメージの中の存在と実在の存在が同じ次元にいるような状態です。

あるスピリチャルエマージェンシー状態の方が「世界の苦しみを私一人に背負わせないでくれ~」と叫んでいました。

自分は世界を救うキリストのような存在であり、しかし十字架を背負うにはあまりに苦しすぎる。

それはまさしく世界の中心で世界の苦しみを一身に受けている状態なのです。


スピリチャルエマージェンシー状態の人は、脳内麻薬も炸裂して、最高の恍惚状態を体験するとともに、境界線が崩壊し、最悪の不安状態を、すごいスピードで交互に体験するような状態です。

以上のような急性状態の人もいれば、それほど激しくなく、でも自我の境界線が不明瞭のまま日々を過ごしている人もいます。

夢と現実の境がわからなくなったり、イメージと実在を混同したりします。


彼らが着地して、ある程度、自分を守れるような自我を再建できるようになるには、一番大切な条件は、信頼できる人間関係の中で、健全な関係性を結べるかどうかにかかっています。

もともとある程度自我を確立している人なら、向精神薬などで精神活動を抑えられていなければ、数ヶ月で戻ることができますが、生育的な問題などから、そもそもの自我が脆弱な人は時間がかかるかも知れません。

最近オープンダイアローグという対話による治療をフィンランドで開発されています。

基本は、やはり健全な、信頼できる、人間関係と環境ということになるのかも知れません。

しかし、これがなかなか実現するのが難しいのが現状です。

もしあなたの近くで、そんな魂の危機を体験をしている人がいたら、赤ちゃんをあやすように、暖かく見舞ってあげてください。


あなたにも、魂の奥底に、世界の中心で生きている赤ちゃんがいます。

自我を取り除けば、いつだって世界の中心に行くことができます。

そこは恍惚と不安の只中かも知れませんが、宇宙的な中心に立つ素晴らしい体験かも知れません。

健全な自我を保ちながら、世界の中心(Oneness)を体現した人を、悟りの人というかも知れません。

アニミズムでは、そのような体験者をシャーマンとして、皆を導いたり癒したりする存在として扱われたりします。


参考文献

「魂の危機を超えて」スタニスラフ・グロフ

「スピリチャル・エマージェンシー・ネットワーク」吉福伸逸

「引き裂かれた自己」RDレイン


by wtwong | 2019-06-04 23:32 | essay
<音楽人間、、、>_f0236202_00130597.jpg

この数日、音楽家の友人たちがフェイスブック上に「実は自分は音楽人間で、他のことがどうでもよくなってしまう」的な内容の文章をアップしていました。

音楽以外の、人間関係や、日常のことが、どうでもいい。

そのことで人に誤解されることもある。

そういう自分に戸惑いながら、「いや、これでいいのだ。人にどう思われようが、自分は音楽人間なのだ」そう書きます。

思い切った自己決意をアップしたものだな~と感心しながら、

同時に大きく頷いてしまう自分がいます。


わたしにも音楽以外、他のことなどどうでもいい時代がありました。

人間関係も、生活も、そう自分自身も、、、、

音楽のある高みに向かって、全てを投げ出したい。

もしそこにたどり着けないのなら、それは人生をやめることを意味する。

本気でそう思っていた時代です。

それを芸術至上主義というのかどうか知りませんが、、、、

そのような意識になるのは、主義や考えを選択するということではなく、もうそのような星に生まれてしまった、そういう生き方以外にないということなんですね。


とはいえ、そのような生き方は当然破綻しちゃうんです。

未熟で無知で、わかったフリの、なにもわかっていない。

才能もあるのかないのか、音楽に身を捧げるなんて身の程知らずもいいところです。

笑っちゃいますよね。汗

頭でっかちで、独りよがりの音楽のビジョンは、早晩破綻し、心身ともに疲弊していきます。

そして社会人として、人間として、あまりに無知で、他のことを何も出来ない。

世間知らず、苦労知らずのボンボン、そんな自分に戸惑いと焦燥感に襲われたりもしたものでした。


そんな追い詰められた状況で、少しずつ変化が現れます。

子供が生まれ、家庭というものに意識が向きはじめます。

家庭の中で、色々錯綜しながら、家族へのぎこちない愛を、少しずつ育むようになります。


 その後、瞑想に出会います。

瞑想の体験を通し、音楽の本質目覚めるとともに、霊的な成長ということも視野に入ってきます。

音楽よりも、自分が霊的存在であり、霊的な成就というものに意識を向けるようになります。

毎日瞑想が主になるようなライフスタイルを続けるようになります。

しかしこれも独善に過ぎず、日常生活も健康も、音楽も破綻していく道でした。


それが破綻すると、今度は心の問題、心理療法に目覚めます。

結局、心の問題をずっと棚上げしてきたことの歪みが、今の自分を作っていることに気づきます。

本当の自分に向き合っていなければ、まあ表現なんかもできないわけです。

一時はセラピストになることも考えに入ってきましたが、それも破綻します。

どんなこともそうですが、セラピーというものに人生を託すほどには覚悟がなかったのですね。


そうこうしているうちに2011年3月11日があり、今度は社会意識に目覚めます。

国会前にデモに出かけながら、何か社会の変革ということを夢見ます。

しかし、知れば知るほど、この社会の仕組みの歪みと、為政者や有権者の社会意識の希薄さに、

なにやら絶望的なものも感じはじめます。


そして2017年5月、父親を看取り、本当の意味で自立をせざる得なくなったのが、一昨年でした。

ライフスタイルそのものの変換、立て直しを余儀なくすることになります。

しかしそれは、ある意味、自分の寄って立つ地軸をハッキリさせるということでもありました。

残りの人生をどこに向かって生きるのか、ようやく見えてきたのでした。


そして昨年7月にある文章を書き上げます。

その内容は、残りの人生を音楽を通して、この社会に自分の存在を還元したいと言うものでした。

あれから一年近くが経ちましたが、たくさんの方から応援を頂き、各地でコンサートやライブを開催してくださる方が増えました。

わたしが演奏活動ができるのは、皆さんに応援してもらえているからで、本当に感謝の気持ちが自然に湧いてくる、本当にそう思うのです。

本当に幸運だと思います。


さて、大雑把に自分の音楽人生を振り返ってみました。

もっともっとたくさんの出来事がりましたが、、、、

こうやって俯瞰して、そして今、わたしはどこに立っているのだろう?

私はこの世界のどこに、その立ち位置を確信しているのだろうか?


 そう考えるとき、何か一巡して振り出しに戻ってしまったのではないか、そんな気がしているのです。

気分として、直感的に、振り出しに戻った、という感じ、、、

もちろん、あれから五十年も経っているのですから、同じわけはないのです。

にも関わらず、なにかあの頃の情熱を取り戻しつつあるような気がしています。

いや、今まで一度もその情熱を失ったことはないのです。

ただ、その情熱はどこか空回りしているような、いつも手応えのなさを感じていました。


 そして、今なら、想いに向けて、素直になれる。

昔に比べ独りよがりではなくなったし、頭でっかちでもなくなった。

物事の色々を体験し、相対的に自分を見ることもできるようなった。

少しは技術も音楽性も上がったし、、、

そして何より家族も、友人達も、そして主催してくださる方達も、応援してくれている。

人の愛情や信頼、そして責任ということも、少しは分かるようになった。


ここまで書いて、では、昨日と今日とどう違うのか、明日はどうか?

いや、なにも変わらないのではないか?

なぜならもうすでにそのように生きているから、、、

改めて決意などせず、もうわたしは音楽人間そのものじゃないか、、、

家族を大事にすること、友人知人と関わること、求められる音楽を演奏すること、

そして普通に生活すること、それらが自然で無理がなく行われている。

そして、それらにとらわれることなく、音楽に耽溺することもできる。

その体制や立ち位置を、ようやく構築できた。

私は今、音楽が楽しくて仕方がないのです。

ピアノから一音が聴こえてくるその瞬間から、喜びが湧いてくる。


 私は7月に70歳の誕生日を迎えます。

ようやく出発点に立ったような気がしています。

昨年7月のブログにも書きましたが、私が元気に演奏できるのは、多分80歳まで、、、

もちろんその間に、病気なったり事故になったり、演奏を続けられなくなる可能性もあります。

そのことを心配したり不安がっても仕方があります。

途中で何があろうとも、構わないのです。

80歳まで、音楽をやり尽くしたい。


 友人たちの決意に満ちた熱いメッセージに刺激されて、自分の今までを振り返り、そして今を確信して、彼らに呼応するように、決意を新たにすることが出来ました。

友人たちに感謝ですね。

ありがと~


ウォンウィンツァン
2019-05-31

by wtwong | 2019-05-31 00:13 | essay

<ヒーラーたちの落とし穴と、本当の役割、、、その1


以下の文章は、フェイスブックに何気にアップした内容なのですが、600近い「いいね」50近いコメント、やはり50近いシェアをいただきました。

この内容がこんなに関心を持ってる方が多いことに驚き、とてもうれしかった。

なのでアーカイブの意味を含め、ブログにアップしておきます。

2019年5月6日

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いわゆるヒーラーとか、セラピストとか、カウンセラーとか言う人たちは「自分がクライアントを癒す」という落とし穴に陥りやすい。

そして「人の心を扱う」という事が自分には許されている勘違いしがちだ。

吉福さんは、そのことをとっても強く戒めていた。

私たちにそのことを何度も強調していた。

そして私たちがワーク参加者の心を誘導する様なインストラクションに対して、怒りをあらわにしたものだった。


私たちはどんな人も何らかの問題を抱え、それを無意識に追いやって、そのことを見ることなく生活している。

しかしそれらの心の問題は、無意識レベルから常に日常生活や人間関係に現れて、その人を生きにくくさせている。

しかし、何らかの手がかりがあれば、その様な心の問題を、自ら解決しようと、魂レベルからの強い自己治癒エネルギーが立ち上がる。

どんな人にも、自然な自己治癒力を持っているのだ。

しかし、その治癒力が覆い隠されているのは、やはり自分の問題に直面したくないからなのだ。

自分の問題に直面するのは、やはり辛いことなのだ。

河合隼雄氏は自分の問題に直面することを「対決」とまで言っている。


そんな生きづらさを抱えている人が、ヒーラーやセラピストや、或いは私の様なあたかも包容力のある様な人のところに、引き寄せられて来る。

もちろん宗教にもそれを求める人も多い。

人は救いを求めて、すがる様な思いで彷徨っているのだ。


では、癒しが必要な人たちにセラピストたちは一体何ができるだろう。

とかく彼ら彼女たちを導こうとする。

「ああしなさい」「こうしなさい」「それはこうなのよ」

あらゆる方法で、彼らに方向ずけをし、気づきの内容を当てがおうとする。

彼らはその言葉に従いやすい。

なぜなら、そもそも依存傾向があるから。

そして自分の問題に直面せずに済むし、、、

それは果たして良いことなのだろうか?

吉福さんはそれはノーなのだと言う。

なぜなら彼らの自己治癒力を阻害して、

問題を先送りするだけで

依存対象をそのセラピストにシフトするだけに終わってしまうからだ。


私が心理学を学び始めた時、目が冷める様な思いがあった。

目の前の人が、どのような心の問題を抱えているのか分析できるようになったのだ。

どんな人も、一目瞭然のような気がしたものだ。

そして、その問題がその人にどの様に影響しているか、

まるで手に取るようにわかるようになった。

不遜にも私は、彼らに対して、ジャッジしていたのだ。

そして、こうするべき、ああするべきと、誘導しようとした。

とってもやな奴だった。

家族にも嫌われたものだ。www


(明日早いので今日はここまで、、、)

2019年4月28日


by wtwong | 2019-05-06 10:28 | essay

<音楽の彼岸から>

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Music is the space between the notes.

It’s not the notes you play; it’s the notes you don’t play.

Miles Davis


マイルスデイビスのこの言葉はとっても難解です。

(みなさんのご意見を読みながら)

ようやく私なりの解釈にたどり着きました。

よく解らなかった敗因に、

文章中に3回出てくる「the notes」にとらわれすぎて、

「you」が誰であるのか、どの次元の「you」であるかを忘れていました。

そして「Music」という言葉をどの次元で言っているかも混乱の要因でした。

マイルスにとって「Music」はまぎれもない、

本物の「Music」のことなのです。

それ以外は音楽ではないのです。


演奏家が演奏するとき、

ある表現したい「notes」を演奏します。

それは意思的な作業です。

しかし、そのように演奏された「notes」は

「意思的に表現されたnotes」なのです。

聴衆は「意思的に表現されたnotes」を受け取るだけです。

演奏家が美しいと考える音、あるいは悲しみの音、喜びの音、

それらは意思的に表現されたエゴの音なわけです。

聴衆は、演奏家が美しいと考える音、

悲しいと考える音、喜びと考える音を受け取るでしょう。


でも聴衆は音楽家の「Music」を受け取ることはありません。

なぜならそれらの音に「Music」が込められていないからです。

つまり演奏する「you」なる存在は、まさにエゴの存在なわけで、

聴衆はエゴしか受け取らないでしょう。

それでは「Music」は伝わらないのです。

エゴの存在である「you」が演奏する限り

それは「Music」では無いのです。


ではどうしたらいいのか?

そう、エゴを越えた「私ではない、なにものか」に演奏させるしかないのです。

ここでは「私ではない、なにものか」を、敢えて「魂」と置き換えます。

(人によっては「宇宙」と言うかもしれません

あるいは「神」と言うかもしれません)

つまり「you」が演奏するのをやめなければ「Music」にならない。

「Music」は「you don’t play」あなたの演奏ではない、

「魂」が演奏した音だ、と言っているわけです。


そして魂の演奏した音楽は、音そのものではないと言っています。

「the space between the notes.音と音の間」と言っています。

しかし、この言い方だと、

実際の音の音の時間的スペースと解釈されるかもしれませんね。

そのように解釈すると、演奏しすぎるな、とか、

音の数を少なくしろ、とか、間を大切にしろ、といった解釈になります。


でも、そうではなさそうです。

演奏が寡黙でも、饒舌でもいいのです。

寡黙でも饒舌でも、もしその演奏が「魂からの演奏」であるなら、

それは「Music」になるのです。

そしてそれは聴く人の「魂に届く」のだと思います。


私なりの言い方だと、

「Music」は音を使って表現される「notes」の向う側(彼岸)にある。

英語で言うなら「over there」か「behind」

或いは「beyond」になります。

拙い英語力で再解釈すると、、、


Music is over there beyond the notes.

It’s not the notes you play with ego ;

it’s the notes that can not be notes you play with transcend.


音楽は、音を超えた彼岸にあります。

それは、あなたが演奏した音ではありません。

それは、あなたが超越して演奏する、音にならない音です。


さて、マイルスの最初の言葉を咀嚼する時、

マイルスが音楽を本当に愛しているのがわかります。

そして音楽は必ず聴く人に届くと、

音楽に対する深い信頼も感じることが出来ます。


ウォン・ウィンツァン

2019-04-06


by wtwong | 2019-04-06 05:05 | essay

<超越体験とナルシズム、神体験と利己主義>

<超越体験とナルシズム、神体験と利己主義>_f0236202_01213721.jpg

 「解脱」とか「悟り」を求める人達が、いつの時代にもいました。

インド思想史、仏教史には、そのような人物が連綿と続きます。

彼らは、それらを何故求めるのか、様々、個々の理由はそれなりにあるのでしょう。

救済を求める人、人間の精神性の高みを求める人、この現世の不条理に絶望した人、神になりたい人、それぞれです。


 時代を超えて延々続く「行者」を俯瞰する時、人間には根源的な成長欲求が、つまりは「神への指向」が有るのではと、私には思えます。

それが幼児的な段階では、鉄腕アトムだったり、スーパーマンだったり、なにか「超越的な存在への指向」が、人間の原初的な情動としてあると、私には思えるのです。

そう、人間は神になりたいのです。


 インド思想では「梵我一如」という考えがありますが、深い瞑想修行を繰り返すことで、宇宙意識、神意識、最終的には統合意識「ブラフマン」の高みに至ると説かれています。

仏教でもブッダがたどり着いた境地「さとり」を追い求めるのが、仏教の修行目的です。

そのお悟り指向、神指向を、あるいはスーパーマン指向を、私は「原初的な超越指向」として人間が誰でも持っているアーキタイプ(原型)なのだと思っているのです。

そのアーキタイプに突き動かされて、人は「解脱」あるいは「さとり」という言葉に沢山の幻想を添付してきました。

別な角度から言及するなら、さまざまな宗教は、この投影だと、私は思っています。


それでは、なぜ分別の有る大人が、常識人が、論理的思考が出来るエリートたちが、そんなスーパーマン幻想に囚われてしまうのでしょうか?

かれらの「超越的存在への指向」を下支えするのは、一体何なのでしょう?

それは、まさに「超越的体験」にほかなりません。


 人は「超越的体験」をすることが出来る生物です。

有る意識状態の中で神々しい存在に出会ったり、宇宙的体験をしたり、クンダリニーという超越的な生理体験をしたり、もう、それは人類の歴史の中で、アミニズムやシャーマニズム、などなど、人類の宗教史を積み重ねてきたことを思い返すと、それだけで壮大な精神史を形作っているのがわかります。


 近年、科学合理主義が台頭し、非科学的なものとして、宗教的な幻想はだいぶ剥がれてしまいました。

 にもかかわらず人が体験する超越体験は減ることはありません。

それは他ならぬ人間にはそのような超越体験をする脳機能が有ることが、最近の脳科学の世界で証明されてきました。

超越体験のさなかでは、脳の中の辺縁系と言われるところが活性化していることが確認されています。

辺縁系を持っている人は、つまり脳機能が普通にある人達は、超越体験をする可能性があるということが、逆に証明されたのです。


 では「超越体験」とは一体どういうものなのでしょう?

彼らは何を見、何を感じ、何を考えるのでしょう。

超越体験によって彼らは「自分は神になれる」「このプロセスを続ければ、必ず解脱に至る事が出来る」そう考えたに違いありません。

そのぐらい強烈な体験をするのです。

その体験は、本当にめくるめく至福の体験、圧倒的な宇宙的な体験の中「自分は神に愛されている」そう見誤ったとしても、不思議ではないほどの魅力的で、強烈な体験なのです。

体験者の私が言うのですから、それは本当です。

そのような妄想を、実は私も持ったのですから、、、

 「神に愛されている」ほどの体験した人に、一体何が起こるでしょう。

そう、誰でもが持っていて、しかし抑圧されている情動「ナルシズム」が開放されるのです。

ナルシズム、自己愛傾向は、実は誰でもが持っている傾向です。

しかしそれは様々な抑圧によって心の奥底に閉じられています。

その抑圧とは「世間様」であったり「自己規制」であったり、とっても常識的な自己抑圧装置のことです。

その抑圧は、本当は不本意であり、出来るのことなら取り除きたい情動を実は誰でもが持っています。


 しかし、もしあなたに超越体験、圧倒的な光りが降り注ぐ中で、ゼウスのような神々しい存在があなたに振り向いたら、いったいあなたに何が起きるでしょう。

不本意にもっていたナルシズム抑圧装置が開放されたとしても不思議ではないと思いませんか。


 「自分は神に愛された。そして修業によってわたしも神となる。そして人を愛し、人からも愛され、皆を導く存在になるのだ」と考えても不思議じゃないのです。

そのぐらい強烈な体験であり、誰でもが持っているナルシズムを開放するに十分な体験なのです。

以上のようなことが組織として起きたのがオウム真理教事件でした。


 私たちは彼らを断罪します。

それは犯罪を犯し、無実の人々を殺めたのですから、それは当然です。

しかし、では私たちにそのような「超越指向、神指向」「ナルシズム」は関係のないものでしょうか?

世の中を見渡せば、権力指向、ボス指向、お金持ち指向、などなど、実はこの世界の繰り広げられている様々な事象は、人間が根源的に持っている幻想「神指向」と「ナルシズム」の投影だと、そのよう見えると思いませんか?


 そのような通俗的な出世欲や権力欲からみれば、解脱欲、お悟り欲は高尚に思えるかもしれません。

しかしどうでしょう?

私には利己主義のもっとも強いものとしか思われないのです。

何しろ神指向ですから、、、

求道精神に萌え、解脱修行をしている人は、無自覚に最も強いエゴイズムを体現しているのです。

解脱を求めることは最も利己的な行為なのです。


 さて、ここまで来て読む人は、私が求道をやめろと言っていると思うかもしれません。

解脱やお悟りを求めることを利己的行為だと言っているのですから。

でも、それは正しくありません。

やめとろも、あるいは続けろとも言っていません。

ただ少なくとも、お伝えしたいことが有るとしたら、今申し上げたことです。

解脱や悟りを求める営為は、最も利己的な営為なのだということを忘れないで欲しい、と伝えたいのです。

そしていかなる超越体験も、体験以上のものではないということを、気づいてほしいのです。


 その上で、自分が何を求めているのか?

何をなそうとしいるのか?

求道とエゴイズムの間で、私たちは何を気づき、何をなし得るのか?

それは、まさしく密教的な気付きの世界です。

誰からも教わることが出来ない、もっとも個人的な気づきなのです。


 私の師匠、吉福伸逸さんのワークショップは、そのような密教的な気付きというものにフォーカスされていました。

しかし、それを標榜してワークショップはしていません。

参加者皆それぞれのプロセスをたどり、それぞれの気づきとしてのコンテンツを得る。

そのコンテンツは、吉福さんや、勿論インストラクターとしての私たちも介入できません。

気づきはその人だけの最も個人的なものなのです。

しかし、それでも、吉福ワークには、もっともディープな、密教的な気付きにフォーカスされていることを、吉福さんは勿論、私たちインストラクターも内心、意識されているのです。


ウォン・ウィンツァン


by wtwong | 2019-03-26 01:22 | essay