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<超越体験とナルシズム、神体験と利己主義>

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 「解脱」とか「悟り」を求める人達が、いつの時代にもいました。

インド思想史、仏教史には、そのような人物が連綿と続きます。

彼らは、それらを何故求めるのか、様々、個々の理由はそれなりにあるのでしょう。

救済を求める人、人間の精神性の高みを求める人、この現世の不条理に絶望した人、神になりたい人、それぞれです。


 時代を超えて延々続く「行者」を俯瞰する時、人間には根源的な成長欲求が、つまりは「神への指向」が有るのではと、私には思えます。

それが幼児的な段階では、鉄腕アトムだったり、スーパーマンだったり、なにか「超越的な存在への指向」が、人間の原初的な情動としてあると、私には思えるのです。

そう、人間は神になりたいのです。


 インド思想では「梵我一如」という考えがありますが、深い瞑想修行を繰り返すことで、宇宙意識、神意識、最終的には統合意識「ブラフマン」の高みに至ると説かれています。

仏教でもブッダがたどり着いた境地「さとり」を追い求めるのが、仏教の修行目的です。

そのお悟り指向、神指向を、あるいはスーパーマン指向を、私は「原初的な超越指向」として人間が誰でも持っているアーキタイプ(原型)なのだと思っているのです。

そのアーキタイプに突き動かされて、人は「解脱」あるいは「さとり」という言葉に沢山の幻想を添付してきました。

別な角度から言及するなら、さまざまな宗教は、この投影だと、私は思っています。


それでは、なぜ分別の有る大人が、常識人が、論理的思考が出来るエリートたちが、そんなスーパーマン幻想に囚われてしまうのでしょうか?

かれらの「超越的存在への指向」を下支えするのは、一体何なのでしょう?

それは、まさに「超越的体験」にほかなりません。


 人は「超越的体験」をすることが出来る生物です。

有る意識状態の中で神々しい存在に出会ったり、宇宙的体験をしたり、クンダリニーという超越的な生理体験をしたり、もう、それは人類の歴史の中で、アミニズムやシャーマニズム、などなど、人類の宗教史を積み重ねてきたことを思い返すと、それだけで壮大な精神史を形作っているのがわかります。


 近年、科学合理主義が台頭し、非科学的なものとして、宗教的な幻想はだいぶ剥がれてしまいました。

 にもかかわらず人が体験する超越体験は減ることはありません。

それは他ならぬ人間にはそのような超越体験をする脳機能が有ることが、最近の脳科学の世界で証明されてきました。

超越体験のさなかでは、脳の中の辺縁系と言われるところが活性化していることが確認されています。

辺縁系を持っている人は、つまり脳機能が普通にある人達は、超越体験をする可能性があるということが、逆に証明されたのです。


 では「超越体験」とは一体どういうものなのでしょう?

彼らは何を見、何を感じ、何を考えるのでしょう。

超越体験によって彼らは「自分は神になれる」「このプロセスを続ければ、必ず解脱に至る事が出来る」そう考えたに違いありません。

そのぐらい強烈な体験をするのです。

その体験は、本当にめくるめく至福の体験、圧倒的な宇宙的な体験の中「自分は神に愛されている」そう見誤ったとしても、不思議ではないほどの魅力的で、強烈な体験なのです。

体験者の私が言うのですから、それは本当です。

そのような妄想を、実は私も持ったのですから、、、

 「神に愛されている」ほどの体験した人に、一体何が起こるでしょう。

そう、誰でもが持っていて、しかし抑圧されている情動「ナルシズム」が開放されるのです。

ナルシズム、自己愛傾向は、実は誰でもが持っている傾向です。

しかしそれは様々な抑圧によって心の奥底に閉じられています。

その抑圧とは「世間様」であったり「自己規制」であったり、とっても常識的な自己抑圧装置のことです。

その抑圧は、本当は不本意であり、出来るのことなら取り除きたい情動を実は誰でもが持っています。


 しかし、もしあなたに超越体験、圧倒的な光りが降り注ぐ中で、ゼウスのような神々しい存在があなたに振り向いたら、いったいあなたに何が起きるでしょう。

不本意にもっていたナルシズム抑圧装置が開放されたとしても不思議ではないと思いませんか。


 「自分は神に愛された。そして修業によってわたしも神となる。そして人を愛し、人からも愛され、皆を導く存在になるのだ」と考えても不思議じゃないのです。

そのぐらい強烈な体験であり、誰でもが持っているナルシズムを開放するに十分な体験なのです。

以上のようなことが組織として起きたのがオウム真理教事件でした。


 私たちは彼らを断罪します。

それは犯罪を犯し、無実の人々を殺めたのですから、それは当然です。

しかし、では私たちにそのような「超越指向、神指向」「ナルシズム」は関係のないものでしょうか?

世の中を見渡せば、権力指向、ボス指向、お金持ち指向、などなど、実はこの世界の繰り広げられている様々な事象は、人間が根源的に持っている幻想「神指向」と「ナルシズム」の投影だと、そのよう見えると思いませんか?


 そのような通俗的な出世欲や権力欲からみれば、解脱欲、お悟り欲は高尚に思えるかもしれません。

しかしどうでしょう?

私には利己主義のもっとも強いものとしか思われないのです。

何しろ神指向ですから、、、

求道精神に萌え、解脱修行をしている人は、無自覚に最も強いエゴイズムを体現しているのです。

解脱を求めることは最も利己的な行為なのです。


 さて、ここまで来て読む人は、私が求道をやめろと言っていると思うかもしれません。

解脱やお悟りを求めることを利己的行為だと言っているのですから。

でも、それは正しくありません。

やめとろも、あるいは続けろとも言っていません。

ただ少なくとも、お伝えしたいことが有るとしたら、今申し上げたことです。

解脱や悟りを求める営為は、最も利己的な営為なのだということを忘れないで欲しい、と伝えたいのです。

そしていかなる超越体験も、体験以上のものではないということを、気づいてほしいのです。


 その上で、自分が何を求めているのか?

何をなそうとしいるのか?

求道とエゴイズムの間で、私たちは何を気づき、何をなし得るのか?

それは、まさしく密教的な気付きの世界です。

誰からも教わることが出来ない、もっとも個人的な気づきなのです。


 私の師匠、吉福伸逸さんのワークショップは、そのような密教的な気付きというものにフォーカスされていました。

しかし、それを標榜してワークショップはしていません。

参加者皆それぞれのプロセスをたどり、それぞれの気づきとしてのコンテンツを得る。

そのコンテンツは、吉福さんや、勿論インストラクターとしての私たちも介入できません。

気づきはその人だけの最も個人的なものなのです。

しかし、それでも、吉福ワークには、もっともディープな、密教的な気付きにフォーカスされていることを、吉福さんは勿論、私たちインストラクターも内心、意識されているのです。


ウォン・ウィンツァン


by wtwong | 2019-03-26 01:22 | essay