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<聖なる怒り>

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 怒りを否定する人は多いですね、、、

社会通念も、宗教でも、怒りは忌避される。

怒ることを強く抑圧する文化の中に私たちは生きています。

怒りはタブーなのです。


 にも関わらず世界は怒りに満ちあふれている。

インターネットを見れば怒りの言葉が交錯して、驚きます。

抑えても抑えても、怒りは私たちの社会をしっかりと覆っている。

人間関係だけでなく、組織に対しても、政府や他国に対しても、、、


 怒りを恐れる人や、自分の怒りを制御できない人は、実は生育のプロセスで怒りに晒された体験を持っていることが多いようです。

例えばいつも夫婦喧嘩をしている親のもとで育ったっ場合や、虐待された場合、、、

あるいは学校や社会で不条理ないじめにあった体験、、、

そして、戦争体験、、、


 怒りを否定する人に、意識の奥底に怒りを抱えている場合もあります。

そして自分の深いところにある怒りにふれると、その怒りによって自分を失うこと、自我が揺らぐことを恐れます。

怒りで自分が制御できなくて、犯罪に走ってしまう人もいるでしょう。


 では「怒りの本質」とはなんでしょう?

私はこう考えます。

それは「宇宙的な愛から追放された深い悲しみの現れ」だと、、、

私たちは聖なる母のお腹の中で、聖なる存在、宇宙に全的に包容された霊的存在として、まず命を授かります。

お母さんのお腹の中で、完全な愛に包まれていました。

しかし、10ヶ月も過ぎた頃、そのような宇宙的包容から、この現実の世界へ放り出されます。

出産とは、宇宙的存在であった命が、この現実世界に放り出された瞬間、つまりは宇宙からの追放体験だったのではないでしょうか。

そして10ヶ月ごろから、母親である存在が自分ではないこと、社会と自分は切り離されていることを自覚し始め、自分と他の間に境界があることに、いやでも気付かされてしまいます。

自我の成長の始まりですね。

それらの体験にこそ元型としての「怒りの萌芽」あるいは、自分が霊的存在としてそのままでは居られない、聖なる母からの裏切られた怒りの起点があると思うのです。


 「聖なる母」から追放されたことの怒りと、そして悲しみ。

その現実世界に生きる私たち人間の原初的な情動にそのような「聖なる怒り」が宿っている、私はそう思っているのです。


 この社会、世界に生きとし生きる人々の奥底に、聖なる母に裏切られた深い悲しみと、根源的な怒りを抱えていて、それらの情動は無自覚に、日常の様々な場面に投影され、結果として、この社会はまさに怒りにあふれることになるのではないでしょうか、、、

「聖なる怒り」の無自覚なこの世界への投影は、戦争や、人間同士の不条理な仕打ち、それらは本質的に受け入れられなかったことのルサンチマン、報復なのかもしれません。

無意識領域に眠る「聖なる怒り」は常に私たちの顕現意識に浮上し、様々な場面で、私たちをコントロールしています。


 では私たちはどうやって「聖なる怒り」から開放することができるでしょうか?

あるいは、どうやって聖なる母のその懐に再び抱かれることが可能になるのでしょう?

私はこの現実世界に生きている限り、本質的には出来ないと考えています。

いつか、宇宙に再び抱かれるまで、すなわち「死」によって、最終的に聖なる母に包容されるまで、私たちはその悲しみと怒りから開放されないのです。


 私達の残された可能性は、そのような「聖なる怒り」に自覚的になることです。

怒りがあるのは、まだ希望を持っているからです。

私たちは何らかの「強烈な気付きの体験」によって、この世に生を受けている限り「聖なる母」からの完全な愛に包まれることはないことを自覚します。

そして無自覚な情動に振り回されないことを自らに規定することができるようになります。

それはある意味で絶望、あるいは諦念かもしれません。

生きている限りは完全な愛は得られないということを積極的に受け入れ、諦め、その上で、生きることを選択すること、、、。

その時が母なるものからの開放、「聖なる怒り」からの離脱が可能になるのではないでしょうか。


 そして死によって宇宙的に包摂されるその時まで、現世的な愛の育みに、その喜びを見出し始めます。

「聖なる怒り」から開放された人は、怒りに振り回されることがなくなり、内側から沸き起こる様々な情動に開放的になります。

怒り、喜び、悲しみ、楽しみ、あるいは様々な言葉にならない情緒・情動のヒダを楽しむことができるようになります。

そして、生きていく上での様々な場面で、適切な怒り、適切な喜び、悲しみ、情緒情念の表現ができるようになります。

怒る必要があるときは怒り、悲しむべきときは悲しみ、喜ぶべきときは最大限に喜ぶ、美しむべきときは最も深く美しむ、、、、

そしてそれらの情動に決して振り回されることがない。

人間の情念、情緒の成長とは、そういうことなのではないでしょうか。


ウォン・ウィンツァン

2019-09-30