<自己陶酔からの脱却、自我の成長>

<小壺:山本安郎>
わが師匠、吉福さんにある課題を出されたことがある。
「向こう半年間、自分を一切説明するな、、、
自分のことを語るな、、、」
相手が私のことを誤解したり、理解が不十分だと思っても、フォローしたり弁護したり、自己正当化することをしない修行。
これはなかなか辛いものがあったけど、おかげで相手にどう思われようが、揺らがなくなったし、そんなことはどうでも良くなってしまった。
そもそもコミュニケーションによる理解というものも、実に曖昧だし、本質的に理解し合えるというのは幻想だ。
こう云うとコミュニケーションというものを否定しているように思われるかもしれないけど、言語的な理解など薄っぺらなものなのだ。
人は理解というものを超えて、繋がり合える存在なのだ。
フェイスブックで様々な文章に出会う。
その中で自己肯定感の強い文章に出会うと、どうしても違和感を感じてしまう。
自己肯定や自己正当化、自己誇示に感じてしまうのは、自我の未熟を感じてしまうからなのだ。
「自己陶酔するな、、、、
真実を見よ、、、
主役から降りろ、、、」
吉福さんは、自我の成長というものに様々なアプローチを試みていた。
そして悲観していた。
そうだろうな~~
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もう一つ、、、
自我というものがある程度手放した者同士が出会う時、そこでのコミュニケーションはとってもニュートラルなものになると思う。
ウォン・ウィンツァン
2021-04-20
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by wtwong
| 2021-04-20 22:03
| essay & photo